歌だけでなく、演技でも魅せる存在に

 尾藤には3人の孫がいる。

「若いころに出た『野獣を消せ』('69年)という映画のビデオをファンの方が送ってくれたので、孫たちと一緒に見ていたら、始まって10分もしないうちに僕がバイクで女の子を追いかけて乱暴するシーンが出てきたんですよ。それを見て、まだ小学生の孫たちは“じじ、大嫌い!”って怒り出して、しばらく口もきいてくれなかった

 尾藤の役者としてのキャリアは、歌手としてのそれとほぼ同じ。初仕事は10代で出演した舞台『蜜の味』だった。

 映画デビューは《日本初の本格ミュージカル映画》と銘打たれた『アスファルト・ガール』('64年)。作品の後半では尾藤がプロの一流ダンサーたちを従えてセンターを務めるレビューシーンがある。ストーリーの上では端役ながら、歌って踊れるエンターテイナーとして尾藤は存在感を示した。

 日本のニューシネマの傑作となった市川崑監督の『股旅』('73年)では、小倉一郎、萩原健一さんとともに若い渡世人を演じた。作品は、尾藤が演じる信太がお国訛り丸出しで「これにておひきゃあをねぎゃあます」と一宿一飯の仁義を切る長広舌で始まる。

「そのころ、高倉健さんの東映ヤクザシリーズが流行っていましたけれども、市川先生から“ヤクザはそんなにカッコいいもんじゃないんだよ”と教えられて、僕も『やくざの生活』という本を読んだり、信太の故郷の方言を勉強したりしました」

 尾藤は市川監督を「演技の師匠」と敬う。名監督に役者の才能を引き出されたことで、歌って、踊って、芝居もできるエンターテイナーの道が拓けた。

 '80年、ミュージカル『ファニー・ガール』では元宝塚女優の鳳蘭と共演。公演パンフレットには、演劇評論家の橋本与志夫さんが尾藤について、こう記していた。
《ちょっと不良性を帯びていて、少しばかりおっちょこちょいで、しかも根はお人好しでといった役どころに回ると、すばらしい光りを放つ/もともと歌手としても、役者としても、決して器用なほうではないと、自他ともに認めている人だけに、ここへ来るまでの努力は並みたいていではなかったろう》

 この作品で、尾藤は演劇人の勲章ともいえる『菊田一夫演劇賞』を受けた。

「主役のファニーに歌や踊りを教える振付師の役でしたけれども、オープニングで曲芸師が出てくるシーンも僕が演じて、それも評判になったんです。菊田先生の賞を自分がいただくなんて夢にも思っていませんでしたから、うれしかったと同時に、自分がこの道を生きてきたことへの自信になったことはたしかですね」

 翌年、森田芳光監督の名作『の・ようなもの』では落語家を演じた。弟弟子役で共演した、7つ年下の俳優・でんでんは言う。

「この映画が僕の役者デビューのようなもので、ズブの素人同然なのに、尾藤さんは優しく接してくれましてね。演技のことを相談すると、いつも“自然に、自然に”と言いながら、“自然っていうのが一番難しいんだけどね”と笑っていた。

 例えば、弟子たちで銭湯へ行って、僕が“全身ネコ舌なんだよ”と言いながら熱いお湯に入るシーンがあるんですけど、そのときに尾藤さんがアドリブでバシャッと僕に水をかけて、賑やかな笑いがそれこそ自然に起きたんです。台本のト書きにはない小さなアドリブひとつで、尾藤さんは弟子たちの上下関係や仲の良さを見事に表現したんですよ。役者って、奥が深いけど素敵な仕事だなと思った瞬間でしたね」

 映画の公開後も、でんでんは尾藤を「アニキ」と慕い、親交を深めた。40年以上の付き合いの中で、役者としてだけでなく、人として尾藤から多くを学んだとでんでんは話す。

「尾藤さんは毎年、曲芸をやっていたときの鏡味小鉄師匠ご夫妻を温泉にお連れしていたんですよ。僕も2回、草津温泉にご一緒したことがあって、ご夫妻が本当にうれしそうにニコニコされていたのをよく覚えています」

 破門になっても師匠への感謝の念は変わらない。人一倍努力する尾藤の姿勢が、曲芸師のころに培われたことを多くの共演者やスタッフが知っている。'16年、『の・ようなもの』の35年後を描いた映画『の・ようなもの のようなもの』では、寄席のシーンで口にくわえた撥の上に土瓶を乗せる曲芸師が登場する。師匠・土瓶の小鉄を彷彿させるカットのインサートは、尾藤の下積み時代に敬意を表するプロデューサーや監督たちのアイデアだった。

「月並みな話ですけれども、いただいたお仕事をまじめにやろうという気持ちだけでこれまでやってきたんですよ」

 と、尾藤は言う。だが、気持ちだけでは乗り越えられないハンディキャップも背負った。30代後半から、尾藤の両目は徐々に視野を失い始めた─。