次第に病状は悪化。妄想が酷くなり、薬を大量服薬する自殺未遂を起こしたことも。そんなY子に代わり、阿部さんはすべての家事をこなした。

「Y子は思うように動けず寝てばかりでした。親族との関係も悪く、孤独だったんです。そんな妻を私が支えなくてはいけないと思っていました」

 ここで生活に大きな変化が起こる。2006年12月に愛実さんが誕生するのだ。

住民基本台帳に閲覧制限が

「すっごく嬉しかったのを覚えています。初めて抱いたときは、壊れてしまいそうなぐらい小さくて怖かったのですが、本当に可愛くって……。父親になったという自覚が沸き、もっと頑張らなくてはいけないと強く思いました」

 Y子にも変化はあったのか。

可愛がっていましたが、正確には教育熱心だったという印象です。“幼い時の教育が大人になって影響するんだから”と話し、食べさせる物へのこだわりは強く、知育玩具を買い与えていました。勉強って歳でもないんですが……。Y子は学生時代に“いじめ”に遭っていたことから、娘をいい学校へ進学させて周囲を見返してやりたいという思いがあったようです。子どもは自分の分身ではないのに……」

 その一方で、阿部さんの負担は増大していた。

「Y子が病気で昼間は子どもの世話をできないため、保育園に預けていたのですが、その送迎やお風呂といった育児に加えて食事の支度など、家事育児のほぼすべてを私が担っていたんです。愛実の世話について、Y子は口頭で私に指示をするだけ。私の母にも助けてもらいましたが、少しでもY子の思った通りでない育児をすると、すごい剣幕で罵倒されるのです。腫物に触るように接していました

 父親として家族を支えなければいけない。そんな思いだけが阿部さんを突き動かしていた。しかし、心が壊れる。

'09年3月22日、阿部さんと遊び疲れて眠ってしまった愛実ちゃん。これが最後に会った日となった(阿部さん提供)
'09年3月22日、阿部さんと遊び疲れて眠ってしまった愛実ちゃん。これが最後に会った日となった(阿部さん提供)
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「仕事から帰っても家事育児で休まる時間がなく、限界がきていました。当時は配達の仕事をしていたのですが、あるときから配達先を1軒回ると気分が悪くなり、休憩しないと動けなくなって……。1日30軒回っていたのが、3軒回るのがやっとでした。そんな状態でしたから、仕事をクビになってしまいました」

 それが2008年9月末のこと。ほどなくしてY子の病状が悪化したなどの理由から、夫婦は別居し、2009年8月には調停離婚が成立。親権はY子が持つことになる。

「絶対に愛実を渡したくなかったのですが、親権争いは母親が優位ですから勝ち取ることは難しかった。私が納得しないでいるとY子が面会交流をさせると言ってきたんです。月に1回会えるなら愛実の様子もわかるし、問題があれば即座に親権変更ができると考え、私は渋々承知したんです。まさか完全に会えなくなるとは思いもしませんでした」

 Y子はさまざまな理由をつけ面会交流を拒絶する。

「家族で住んでいた家からY子が転居したため、どこに行ったのかわからなくなってしまいました。愛実に会う方法を必死に模索するなか、住民票を取得しようとしたら、住民基本台帳に閲覧制限がかけられていたんです」