幸い一命をとりとめる
幸い一命をとりとめて、一刻も早く家を出て自立しようと心に決めた。
高校には進んだが、1年生の途中で退学した。校長室で「モデルの仕事を本格的にやりたいので」と告げると、まったく反対されなかった。
「15、16歳で働ける仕事って、本当にないんですよ。唯一の選択肢がモデルでした」
母の妹が若いころに京都でモデルをやっていたので伝手があり、すぐに仕事を始められたのだが、最初は苦労した。
「今じゃ考えられないんですけど、そのころの関西のモデルって、例えばヘアショーに出るのに、ドレス、アクセサリー、靴まで全部自分で用意しないといけなくて、稼いだギャラで、ある程度投資しなきゃならない。着物の撮影会だと自分で着付けして髪も整えなきゃいけなくて、大変でしたね」
懸命に働き、アパートを借りて一人暮らしを始めたのは17歳のときだ。
大阪で開催された企業のパーティーに仕事で参加したときのこと。見知らぬ女性に声をかけられた。
「東京に遊びに来ない? 交通費も全部出すから」
スカウトされ上京
相手が女性だったので特に警戒もせずに上京。事務所で何枚も写真を撮られ、そこで初めてスカウトだと気がついた。
「芸能界にはまったく憧れがなかったんですよ。むしろアイドルとか、私には無理、幼稚だわと、上から目線のアンチな感じでした(笑)」
それなのに事務所が無断でキャンペーンモデルの選考に応募。最終選考にも通ったが、杉本は「絶対、嫌だ」と断って話は流れてしまう。
その後、事務所の社長が京都まで来て何度も説得された。「京都に住んで、仕事のあるときだけ東京に行く」という条件を認めてもらい、“杉本彩”が誕生した。
1987年に東レ水着キャンペーンガールとしてデビューすると、日本人離れしたプロポーションで話題を呼ぶ。たちまち人気に火がつき、映画、テレビ、音楽など仕事の幅はどんどん広がっていく。さすがに京都から通うのは難しくなり、20歳のときに東京に転居した。
「肌を露出して、セクシーなパフォーマンスをする。そういう方向性は間違ってないと思いました。それは私の強みだし、バレエをやっていたときも、子どもなのに色気のあるダンスをするって、先生によく言われたんですよね。
でも、求められるパフォーマンスをして頑張れば頑張るほど、本当の自分とどんどん乖離していくんです。ものすごい奔放な遊び人みたいに誤解されて……。求められれば性について話したり解放的な発言はしますが、それは私の一部でしかない。根っこは実はコンサバだし、感受性が強かったので、傷つくことも多かったですね」