『夢で逢えたら』で香港ロケに行ったときのミチコさん
『夢で逢えたら』で香港ロケに行ったときのミチコさん
【写真】『夢で逢えたら』時代の清水ミチコさん

憧れのタモリはいつも優しくて穏やか

 家庭科の教員免許を取って短大を卒業。地元の岐阜には帰らず、東京でアルバイトをしながら、糸井重里さんなどが講師を務める、クリエイター養成の教室「パロディ講座」に通い、道を模索していた。

 アルバイト先のオーナーの紹介で、ラジオ番組の関係者とつながりができ、デモテープを提出。新しく始まったミュージシャンのクニ河内さんのラジオ番組に放送作家兼アシスタントとして出演もするチャンスをつかんだ。

 そこで、リスナーのハガキを読んだり、番組の構成を考えたりしながら、自分のモノマネやネタを披露することもあった。

最初は凝ったコントを書いてやっていたりもしたんですけど、それよりモノマネのほうが、ひと言でぱっとウケるので、リスナーの反応がいいほうを伸ばしていこうと思うようになりました

 ラジオ番組を通じて、何がウケるのかがわかり、ネタも増えてきたところで、渋谷にあった小劇場『ジァン・ジァン』の新人オーディションに応募。'86年、初の単独ライブを行い、本格的に演者としてデビュー。

 『ジァン・ジァン』でのライブは、回を重ねるごとに観客が増え、やがてテレビ関係者の目に留まった。注目の新人を30分かけてじっくり紹介する深夜番組『冗談画報』に出演。そのころに結婚したが仕事は続け、'87年には『笑っていいとも!』のレギュラー出演が決まった。

「タモリさんはどんなときもニコニコ笑って接してくださって。緊張してる私も楽しく番組に出演することができました。毎日が生放送で、タモリさんだって、本当はいろいろあったと思うんですけどね。いつも優しくて穏やか。本当に人格者で、今も私の憧れです

 '87年12月、ライブを収録した初アルバム『幸せの骨頂』を発表。'88年4月から3か月産休をとって、無事に出産。『いいとも!』に復帰もできた。公私ともに順風満帆に見えたが、ミチコさん自身は、悩み始めていたという。

「テレビに出て、人にちやほやされたりしたら、どんなにいいかなと思っていたのに、いざテレビに出始めると、注目される状況が苦手だとわかって、波に乗っていけなかった。それに、期待値がどんどん高まっていくのが苦しくて。それまで無責任にふざけていたのに、そうはできなくなって、自分じゃなくなっていく感覚がありました」

 産休からの復帰直後、新しく始まるバラエティー番組『夢で逢えたら』のレギュラー出演が決まった。共演はダウンタウンウッチャンナンチャン、野沢直子さん。当時は全員20代、お笑い界の次世代のホープが集まり、深夜枠で新しい笑いを構築していく番組だった。

軽い気持ちで出演を引き受けたんですけど、これほどショックを受けることになるとは……

 コント、トーク、音楽コーナーなどバラエティーに富んだ構成で、特に台本から発展してどんどん笑いを追い求めていくオリジナルのコントは、若者たちを中心に評判となっていった。

 '88年10月の開始当初は平日深夜2時過ぎ、関東ローカルの放送だったが、その半年後には、土曜23時からの全国放送に。しかし、番組が好調な中、ミチコさんはずっと疎外感を感じていたという。

ダウンタウンウッチャンナンチャンは“笑いで天下取ってやろう”という情熱で臨んでいたと思うんですけど、私はそんな覚悟はないということを思い知りました。彼らは収録中だけでなくカメラがまわってないところでも、ずっと面白いことをやっている。

 ある意味、笑いの化け物だった。一緒にいて楽しいんですけど、私だけは面白さに参加できてない。特にコントでは、どんどんアドリブで仕掛けられても、私は対応できなくて。笑っちゃったり、ひどいときは固まって止まっちゃったりしたこともありました。自分は番組の足手まといじゃないかと思って、苦しかったですね」