包丁をにぎりしめ父にぶつけた本音

 彼女は時折スーパーへ行く以外は、ほとんどこもっていた。だがある日、いつもと違う道を通ると、近所でよく吠えると評判の犬と目が合った。

「母もよく吠えられていたそうですが、私と目が合うと、吠えずに尻尾を振ったんですよ。その家は高齢の男性がひとり住まいで散歩もろくにさせていなかったらしい。それで私が散歩役を買って出たんです」

 それからは犬の散歩が楽しみになった。言葉を発しないけれど、その犬は彼女の気持ちに寄り添っていたのかもしれない。犬を通して、彼女は外の世界とつながるようになっていった。

「それから数年後、弟が祖母宅を訪ねたとき、父と大ゲンカになったらしい。弟を止めようとした祖母が階段から転がり落ちて流血騒ぎ。病院に運ばれたら、そのケガ以上に深刻な末期がんが見つかったんです」

 数か月後、祖母はホスピスで静かにこの世を去った。祖母の家でお通夜だと聞いたナナコさんは、道中で包丁を3本買い、すぐに使えるようにパッケージから出してそれぞれ新聞紙に巻き、バッグに入れた。

「祖母宅に着くと父が“よく来たね”と玄関を開けた。その父の胸ぐらをつかみ、外に引きずり出して、あらん限りの力でボコボコに殴りました。“抵抗しない人を殴るなんて”と言った通行人に、私はうるせえんだよと涙目で睨みつけた。父は、“いいんです。すべて俺が悪いんです”と言っていた。私は怒りを止められず、“おまえのせいでおばあちゃんも弟もあんなふうになったし、私もこの家で暮らせなくなったんだよ。全部おまえが悪いんだよ”と殴り続けました」

 騒動に気づいた親戚が家から飛び出してきて止められた。道に投げ出されたバッグの中から包丁が覗いており、親戚が慌てて回収するのが見えたという。