大学へ通うため地元の愛知に居を移した水野さん。伯母と会える機会が増えてうれしい反面、弱っていく姿を目の当たりにする機会が増えた。
「着替えがしづらくなって前開きの服が増えていったり、高い場所にあるものが取りづらくなり、手の届く低い位置にものが増えていきました」
「食と命は切り離せない」
食べる量も目に見えて減少。ついには自宅で転んで立ち上がれなくなり、入院を余儀なくされた。
「ずいぶん身体が弱っていたので、入院が必要ということは、最期が近いということだと覚悟はしていました。でも、若いころの面影が感じられないほどに、どんどん痩せていく伯母の姿を見るのがつらくて、大学の授業や仕事を言い訳に、お見舞いを避けてしまった。現実と向き合うのが怖かったんです」
“今思えば、逃げずに会いに行けばよかった”と、水野さんは声を震わせて語る。鮮明に覚えているのは、意を決して会いに行った日のこと。その2日後に伯母は亡くなった。病室に入ると“やっと会えた”と伯母が笑顔で迎えてくれた。
「前日に食べた肉団子がいかにおいしかったかを教えてくれて。すでに固形物を飲み込める状態ではなかったので、口に入れただけだったはずなのに、すごく満足そうでした。あれだけ若いころからダイエットに夢中で、胃もすでに全摘しているのに、やっぱり食べたいんだなって。人にとって“食べること”は喜びであり、食と命は切り離せないことなのだと痛感しました」
がんによって食べることが難しくなっていった伯母とは反対に、同時期に実家で水野さんが介護をしていた祖母は、
「100歳で亡くなるまで何でも食べられて、本当に元気でした。寝たきりになっても“ハンバーガーが食べたいから買ってきてほしい”と言うくらい食に貪欲で。改めて食べることは生きることだと学びました」
入院して1か月ほどたったころ、伯母は火が消えるように息を引き取った。遺言書には、姪・甥である水野さん姉弟の名前が。さらに遺品の中に、か細い字で書かれた“ごめんね、生きられなかった”という自分たち宛てのメモも見つけた。最期まで自分たちを本当の子どものように思ってくれていた伯母。それを見つけたときに湧き起こった、もっと寄り添ってあげればよかったという悔恨の情は今も消えない。
一方で、取り戻せない後悔を引きずるのではなく、「この先の人生で同じ思いをしないよう生きなければ、という思いもある」と水野さん。
「両親はもちろん、ゆくゆくは自分も老いていくときが来ます。そのときに伯母の胃がんをきっかけに取得した管理栄養士の知識を役立てたい。身近なところから生かしていきたいと思っています」
水野裕子(みずの・ゆうこ)
タレント、スポーツキャスター、番組レポーターとして幅広く活躍する傍ら、'11年に修文大学健康栄養学部に入学。'19年に管理栄養士の資格を取得する。趣味の釣りはプロ並みで、「おさかなマイスター」の資格も持つ。
取材・文/河端直子