将来、なりたい職業は? 小学生に尋ねた調査では、いまや必ず「声優」が上位に入る。声優は、いつから子どもたちの憧れの仕事になったのか? 時代を紐解くと、その潮流の中心には、間違いなく神谷明がいた─。
レジェンド声優・神谷明
「'70年代後半、『宇宙戦艦ヤマト』がきっかけだったと思いますけれども、アニメブームとともに第2次声優ブームが起きたんです。アニメソング(アニソン)の歌手のみなさんと一緒に声優が出演するイベントが各地で開催されるようになると、数千人のファンが全国から集まって、徹夜組まで出る盛況ぶりでした」
と、神谷は振り返る。それ以前に、第1次声優ブームと呼ばれた時代があった。人気を集めたのは、アラン・ドロンの吹き替えをやった野沢那智さんら、外国映画の日本語版で有名スターの声を担当した役者陣。しかし、当時の日本の俳優にとって声の仕事は、必ずしも“本業”ではなかった。ヒッチコックの吹き替えで知られ、テレビ放送が始まる前からディズニー長編アニメの声優も担当していた熊倉一雄さんが当時を語った新聞記事にはこうある。
《僕らが声優を始めたころは、陰の声として裏方的な扱いだった/そう言っては何ですが、素晴らしいアルバイトでした》(東京新聞「アニメ大国の肖像」'07年3月15/22日)
神谷と同い年('46年生まれ)で、『うる星やつら』(諸星あたる役)などに出演した声優の古川登志夫は言う。
「僕らの先輩方の中には、声優と呼ばれることを快く思っていなかった人たちもいて、声の仕事は俳優として食えない連中がやるものだという雰囲気があった。ところが、アニメの仕事が増えてきたころ、神谷さんは僕にこう言ったんです。“音楽活動が中心ならミュージシャンと呼ばれる、声の仕事が中心の自分たちが声優と呼ばれて何を恥じることがあるんだ”と」
声優という呼び方を受け入れ、プライドを持って神谷は自らの仕事に取り組んだ。古川は言葉を続ける。
「アニメ雑誌が創刊されると、神谷さんは“声優界のプリンス”といったキャッチフレーズとともに表紙やグラビアを飾った。神谷明は、第2次声優ブームの先頭を走っていましたね」
第1次ブームでは顔を出さない“陰”の存在だった声優たちが、扉を開けて表に出始めたきっかけに、ことごとく神谷は関わっていた。象徴的だったのは'77年に登場した『スラップスティック』。かまやつひろしさん、すぎやまこういちさん、弾厚作(加山雄三)らが楽曲を提供した“伝説の声優バンド”で、神谷はその結成メンバーだった。
「仲間とスナックで歌っていたときに“バンドやろうか?”という話になってね。もともとエレキをやってた曽我部和恭君がリードギター、野島昭生さんがサイドギター、僕がリズム感のないベース(笑)。ドラムスに古谷徹君を引っ張り込んで、古川登志夫ちゃんがギターで加わって、スラップスティックは5人で始まったんです。横浜にある古谷君の実家に押しかけて、2階の彼の部屋に音漏れ防止の大きな発泡スチロールの板を立てかけ、ガンガン音を出して練習していました」
もともと趣味で始めたバンドだったが、翌'78年に東京・新橋のヤクルトホール(現ニッショーホール)でコンサートを開くと会場は超満員。そのステージに立っていた古川は、こう述懐する。
「舞台の上からメンバー紹介をすると、“ベース、神谷明!”って告げた瞬間に大歓声で、僕の紹介のときとは観客のリアクションが露骨に違った(笑)。ファンのお目当ては明らかに神谷明でしたよ」