「次は洋服!」の祖母の読みが大当たり
鳥居さんが生まれたのは1943年。時代は太平洋戦争の真っただ中だ。生後間もなく疎開して、2歳のころ東京に戻ってきた。
「祖母のミツと母の君子と私との女性3人で、東京・早稲田での新しい暮らしが始まりました。明治生まれの祖母は、何でもパッパと決める気っ風のいい姉御肌で、華やかなものや人の世話をするのが大好きでした」
1945年、祖母は終戦直後の焼け野原を見渡して、“みんな甘いものに飢えているはずだから、和菓子を作って売ればもうかる!”と、和菓子職人さんをかき集めて自宅でようかんを売る和菓子屋を開業した。
それが狙いどおり、大当たりした。飛ぶように売れて、タンスの中にはお札がぎっしり詰まっていたという。
「祖母には先見の明がありました。そのうえ思い立ったらすぐに実行するというバイタリティーも備わっていました」
ところが繁盛していた和菓子屋は、あっさり1年でやめてしまう。
“次は洋服の時代になる!”と、祖母のアンテナが動いたのだ。
服作りに興味を持っていた母をデザイナーに据え、すぐに「御仕立所」の看板を掲げた。母がオリジナルでデザインした洋服をマネキンに着せて店頭に並べるようになると、次第に評判になっていく。またしても祖母の狙いどおり。
御仕立所を開業して4年、1950年には花の銀座に店舗を移すほど繁盛していた。
「当初は銀座7丁目のあたりに店舗を出し、その後しばらくして今の銀座トリヰがある5丁目に越しました。今年で創業73年。やっぱり銀座じゃなくちゃね、とパッパと段取りをつけたのも祖母でした」
そのころになると祖母は商売から離れ、「食道楽の着道楽の役者狂い」という江戸っ子の暮らしを楽しむようになっていた。
一方、母はプレタポルテの先駆けとして活動するデザイナーで、銀座の店舗を軌道に乗せるため忙しく働いていた。いつもスーツとハイヒールといったいでたちで、着物姿が主流だった当時、そんな母親は他にはいなかった。
「きまじめで頑張り屋の母は厳しい人でしたが、笑顔は愛らしくてチャーミングでした。どんなに忙しくても、外出時には私と一緒に画廊に立ち寄り、また音楽会などにも連れて行ってくれました。美しいものに触れる機会をたくさん与えてくれたのです」
1953年、フランスのファッションデザイナーであるクリスチャン・ディオールのショーが日本で開かれた。細くくびれたウエスト、足首に届く長いスカート。帝国ホテルでのショーを見た母は、目を輝かせて“私も必ずパリに行く”と深い感銘を受けていた。
当時の鳥居さんは日本女子大学附属豊明小学校に通っていたが、母は忙しかったので、家に帰るといつもひとりで絵を描いたり本を読んだりしていた。
「芝居好きの祖母は十一代目市川團十郎の後援会長だったので、團十郎の芝居がかかると、祖母に連れられて毎日のように楽屋へ通っていました。また日本に本格的なオペラを紹介した藤原歌劇団の藤原義江先生とは家族ぐるみのお付き合いをしていました。祖母のおかげで、子どものころから歌舞伎やオペラざんまいという贅沢すぎるほどの環境を与えてもらいました」