デザイナーとして一本立ちをした20代後半

20代前半。NYの街並みに溶け込む鳥居さん
20代前半。NYの街並みに溶け込む鳥居さん
【写真】1968年、順調にキャリアを積み上げる26歳の頃の鳥居さん

 旧知の友である俳優の岩下志麻さんは、

「ユキさんとは20代後半に出会い、テレビの連続番組の衣装を着させていただきました。とても華やかで、個性的で、その都度役柄に合わせていろいろ選ばせていただきました」と、語る。

 デザイナーとして一本立ちをした20代後半、結婚もした。

 娘の真貴さんを妊娠したときも出産ギリギリまで仕事を休まず、大きなお腹を抱えて銀座の店舗やテレビ局などの仕事先に通っていた。当時は今のように手軽にお願いできるベビーシッターさんはいなかったから、産院で付き添ってくれたベテランの乳母さんに来てもらい、産後すぐに仕事復帰した。

1968年、順調にキャリアを積み上げる26歳の鳥居さん
1968年、順調にキャリアを積み上げる26歳の鳥居さん

「ユキさんのお嬢さんと私の娘は1年違いで生まれて、お嬢さんの素晴らしい乳母さんをご紹介していただきました。大変ありがたく、今でも忘れられません」と岩下志麻さん。

 夫の高雄さんはやさしい伴侶であり、会社の代表として仕事上の良きパートナーでもあった。妻や母親としての役割は求めず、デザイナーとしての活躍を応援してくれた。

「高雄さんは仕事ばかりしている私の健康管理にも気を配ってくれました。私は仕事に熱中すると、2、3日は寝なくても平気。いくらでも無理ができちゃう(笑)。あるとき、高熱を押して作業していたら、彼に無理やり病院へ連れていかれました。肺炎で即入院。おかげで大事に至りませんでした」

 もともと運動に興味はなかったが、夫のすすめもあってゴルフを始め、身体を動かすことを覚えた。そしてスポーツファッションのデザインにも着手するようになった。

「そうしたエピソードは尽きませんが、夫は2021年に病で亡くなりました。私を大切にしてくれた彼に出会えたことに心から感謝しています」

 亡くなってからひと月ほどたったころ、親交のある黒柳徹子さんから1通の封書が届いた。

「徹子さんの似顔絵が描かれたかわいらしいカードに、心からの文章が綴られていました。やさしくいたわってくれるお悔やみの言葉とともに、“お会いになったことをおいわいいたします”というメッセージも書いてくださって。つらい時期の私にとって大きな励みになりました」

 しばらくの間、バッグに入れて持ち歩き、何度も読み返していたという。

32歳でのパリコレデビューは拍手喝采

 1975年、32歳からパリコレにも参加するようになった。パリでのビジネスパートナーは、著名なファッションコンサルタントのジャン・ジャック・ピカールさん。彼のコーディネートで日本食レストランを会場に決めて、デビューを果たした。

 30数点のこぢんまりしたショーだったが、ランウェイにはイグサで編んだ敷物を敷き、かすりの模様や和花のプリントを大胆に用いた着物風のデザインを発表。日本人デザイナーという個性を存分に表現した。

 デビューショーは“モダン!”“パリジェンヌよりパリっぽい”と拍手喝采を浴び、終わった直後から取材依頼などの電話が鳴りやまず、対応にてんてこ舞いするほど。すぐに『ELLE』『20ans』といったフランスのファッション誌の表紙に取り上げられた。

「何が何だかわからないうちに帰国の飛行機に乗り、機内ではこんこんと眠り続けました。“すごいことをしたんじゃない?” としみじみ感じ入ったのは、日本に帰ってきてからでした」

 それから2008年までの33年間、長いときは1年の半分をパリで過ごしながら、オペラ座やルーブル美術館前のカフェなどさまざまな場所でショーを手がけた。

 1985年には、パリ2区のギャルリ・ヴィヴィエンヌに『YUKI TORII PARIS BOUTIQUE』をオープンさせる。

「モードの本場であるパリで地に足がついた仕事をすることは母の念願でありましたが、私にとっては気負うことのない自然な流れでした。パリでの成功はジャン・ジャック・ピカールさんのおかげです。今でも家族ぐるみのハッピーなお付き合いが続いています」

家族同然のお付き合いをする奥田さん、安藤さんファミリーと
家族同然のお付き合いをする奥田さん、安藤さんファミリーと

 “家族同然”の付き合いをする俳優の奥田瑛二さんが、パリコレの思い出を教えてくれた。

「ある年のパリコレ開催の前に、ユキさんがパリのアトリエでオーディションとモデルさんたちの試着をしていました。その傍らで、僕はどうしたらいいかわからず困っていたら“瑛二さんもいい経験になるだろうからそこに座ってなさい”とユキさんに言われて、2年連続でオーディションを見てしまいました。そのディテールは短い文字では表現できない……。1年目の僕はおどおどした感じでしたが、2年目はどっしりと構えていられたので、完全にオーディション担当のスタッフの一員になっていた気分(笑)。そのときのワインと食事は、それはとても珠玉のものでありました」