円楽師の晩年に寄り添い続けた日々
芸人人生最大の危機も乗り切り、いつもどおりの仕事をこなしていた円楽師に、最後に立ちはだかったのは病だった。仕事に影響が出ないためあえて公表はしなかったが、58歳のとき初期の大腸がんの手術をした。病院から仕事先へ向かうこともあった。そのあとも肺がんや脳腫瘍を患ったが、そのたびに短期間で復帰していた。
芸人生活に致命的な影響を及ぼすことになる脳梗塞で倒れたのは亡くなる約9か月前、2022年1月のことだった。そこから8月の高座復帰まで、長期にわたる療養生活。意欲的だった『笑点』への思いを少しずつ諦める姿。落語家が無理ならプロデューサーとして演芸界に関わり続けられるのではないかと望み始めていた円楽師の、今となっては晩年に植野は寄り添い続けた。
「確かそのころ、久しぶりに会ったときのことでした」
柳家三三は、植野の目から涙が流れ落ち、互いに驚いた場面を振り返る。落語会の楽屋で、たまたま2人きりになったときのこと。
「責任感が強いので、1人で頑張りすぎたり背負い込んだりしないでと、確かそんなふうに声をかけたら、あれ?っていう感じで涙が流れて、当人も不思議だったんじゃないですか。しっかりしなきゃいけないと思ってやってきたところに久しぶりに会った友達の前で、ふと気が緩んで涙がこぼれた感じでしょうね」
病と闘う円楽師を支え、スタッフが減った事務所を切り盛りし、子育てに奮闘する植野は、三三の気遣いの言葉に心が甘えたという。「三三さんがそこにいてくれたことが、ただうれしくて涙が……」
2022年8月、国立演芸場で復帰高座を務めた円楽師は、軽度の肺炎で再入院した。
「体調は悪かったですね。6月、7月は比較的よくて、これなら国立(演芸場の8月中席)に出られるという感じでした。ただ直前、体調が悪化し、国立は大丈夫かとなったけど、本人は出たがった。初日は高座に座りましたが、それ以外の日は車いすに座ってやりました」
円楽師の一挙手一投足が浮かび上がらせる、芸への執着、落語に対する執念。
「本人は、死を全然覚悟していなかったと思いますよ。師匠が強く望んでいた三遊亭圓生襲名に関しては最悪、病院にいる状態でも襲名できたらいいな、という提案はしましたし、植野に任せるよ、と言ってくれていました」
だが、圓生襲名は叶わない祈りだった。大名跡に手が届かないまま、大名跡への未練を抱え円楽師は旅立った。
冒頭の深夜の電話の着信は、亡くなる数時間前のこと。
「出られたらよかったかな、ってそれは後悔です」と植野はじくじたる思いを口にするが、同じような思いを円楽師から聞いたことがあるという。
「国会議員を長らく務めた中川昭一先生が、自ら命を閉じる前に、師匠に電話をかけてきたそうです。2人は仲良しで、よくホテルのバーで飲んでいました。亡くなる直前に着信があったのに、師匠は寝ていて気づけず出られなくて、後々まで後悔していました。当時、それはつらいだろうと思っていたのに、自分も同じことをしてしまったなぁ、と後悔しています」
最後の電話で、円楽師が何を植野に伝えたかったのか。本人に確認することはできないが、数時間後の死を直感した円楽師が、これまであまり口にしなかった、植野に対する感謝の言葉を伝えようとしたのかもしれない。
「植野、22年間ありがとな。心から感謝してるよ」
そんな幻の声を植野は、今もふとしたときに耳にするという。
<取材・文/渡邉寧久>