魔法のつづらを開け、理系から文系に転身

赤松が子どものころによく遊んだ小豆島『肥土山の舞台』
赤松が子どものころによく遊んだ小豆島『肥土山の舞台』
【写真】お酒はなんでも飲むという作家・赤松利市、特に好きなのはレモンサワーだそう

 赤松の父はノーベル賞を嘱望されるほど優秀な研究者だったが、同時に常識にとらわれない人物でもあった。香川大学の農学部長に在任中、高知大学の学生が牛を捌いて、バーベキューパーティーをするという珍事件が起こった。父親のもとに取材が来たが、

「うらやましい。それぐらいの学生が欲しい」

 とコメントして記者を困らせたという。そんな父親を見て育った赤松は、ごく当たり前のように、植物病理学者であり、大学教授である父親と同じ道を自分も歩むものだと信じていた。

「高3の夏休みに、裏庭の土間を開けたんです。大きなつづらが出てきました。親父の大学の学生が大勢来て、ロープを付けて引き倒した。つづらを開けると、曽祖父が使っていた浄瑠璃の台本がいっぱい出てきた。気がつくと、パズル感覚で難しい文字を読み解いていました。それがすごく面白くて。夏の終わりには文学部に行きたいと親父に言うてましたね。親父も、“おう、ええんちゃうか”と」

 つづらを開くまで理数系だったため、文系の勉強はほとんどしていない。受験勉強が間に合わなかった赤松は、大阪の十三で浪人生活を送ることになる。しかし、親からの仕送りで励んだのは受験勉強ではなかった。

「当時、『文藝春秋』でパチプロ特集があったんですよ。その必勝法のとおりにしたら本当に勝てる。その代わり、すごくしんどいやり方ですけどね。毎日8000円は勝っていました。パチンコホールの深夜時給が300円の時代です。今の感覚でいうと日当で4万~5万円稼いでいた」

 赤松は浪人生でありながら大学に行く気を失い“一生パチプロでやっていく”と心に決めた。パチンコのやりすぎで指の形すら変わっていた。

「ところが危機が訪れるわけです。年末ごろに腱鞘炎を起こしてしまった。パチンコができない。やべえ、どうしようと。そこで思いついたわけや。“大学でも行こう”と」

 自信のある英語、国語、数学の3教科で受験できる大学の関西大学、同志社大学、早稲田大学。赤松はそのすべてに合格した。受験勉強の期間は12月から2月までのたった2か月間だ。

「関西大学に進みました。なんで関西大学かいうたら、1つは大阪、1つは京都、1つは東京だったんで。やっぱり十三って街も好きやし、大阪にしようと思いました」