「富士山、きれいだな」
箱根・芦ノ湖畔のゴール手前。身体は限界に近いのに、初めて見る雪化粧の富士山を前に素直にそう思った。胸には東京・大手町から仲間がつないできた襷がある。天下の険を必死に駆け上がりながら2人を抜き去った。「これはすごいことをやった。フィニッシュしたらどうなるんだろう」。胸は高鳴っていた。ゴールの先で恩師が待っていた。勢いのまま抱きつくと「頑張った、頑張った」と褒めてくれた。うれしかった。
走ることを愛してやまない金哲彦さんの“ランニング人生”
走ることを愛してやまない金哲彦さんの“ランニング人生”の号砲が鳴った瞬間だった。
1964年に福岡県北九州市で生まれた金さん。少年時代は鬼ごっこやかくれんぼで町中を走り回った。陸上競技を始めたのは5歳年上の兄、和彦さんの影響だった。
「小学生のころは、中学で陸上部だった兄とよく走っていました。あるとき、デニムの短パンをはいて走ったら股ずれになっちゃって。でも、なんで痛いかわからなくて母親に『股が痛い!』って泣きついた記憶があります」と懐しむ。
兄を夢中で追いかけることで鍛えられ、頭角を現していく。緑丘中学校で陸上競技部に入部。2年で県大会新人2000mでの優勝など順調に成長するが、3年になるとどうしても勝てない相手が。のちに大東文化大学で活躍する只隈伸也さんだ。
「市大会でも県大会でも只隈くんが1位、僕が2位でした。悔しい思いもありましたが、ライバルの存在は貴重だったと思います」
只隈さんと相談し、一緒に八幡大学附属高校(現九州国際大学付属高校)へ進学。地元の新興校を2人で強くして全国大会へ行こうと決めたのだ。熱心な顧問の指導のもとで記録を伸ばしていく。だが、キャプテンに選ばれた3年生の高校総体県大会、5000mは“ドンケツ”の惨敗だった。
「身体が重くてスピードが出せなかった。それで血液検査をしたら極度の貧血だとわかりました」
食事療法や鉄剤を飲み、秋ごろにようやく回復。最後の高校駅伝福岡県大会はアンカー7区を任され、区間トップタイの力走を見せる。しかし総合2位で、都大路にはあと一歩及ばなかった。
大学進学を考える際、箱根駅伝が目標というわけではなかった。
「箱根駅伝は陸上の専門誌で知っていたけど、当時はテレビ中継がなくて自分が走るイメージは持てなかった。それよりも、当時マラソン界のヒーローだった瀬古利彦さんへの憧れがあったんですよ」
福岡国際マラソンで早稲田大学の瀬古さんが優勝したシーンを見て、ユニフォームの“W”の文字に惹かれた。某大学の推薦の話がなくなると「一浪をしてでも早大に行く」と決意し、猛勉強に励む。決して裕福な家庭ではなかったが両親も応援してくれた。