運命を変える恩師との出会い
晴れて現役で早大教育学部に合格、競走部の門を叩く。そこで金さんの人生を変えたともいえる、中村清監督と出会う。その指導方法は強烈だった。練習前の訓話は1時間や2時間はざら。「おまえたちのためなら何でもできる」と草を食べたり、地面を踏んで足を骨折したり、伝説はいくらでもある。
「監督が『俺はおまえたちに暴力は振るわん。だけど俺はその分、自分を殴る』と言って、ボコボコと自分の顔を血が出るまで殴るんですよ。もう迫力が半端じゃない」
普通の学生なら引いてしまうかもしれないが、金さんは「よっしゃ」と練習へのスイッチが入った。
「だいぶ“中村教”に染まっていましたね。監督は心臓に持病がありながら、雨でも傘を差さずに僕らが20、30km走るのを鋭い眼光でグーッと見ている。命を懸けているんだと本気を感じました」
それに呼応するように金さんは倒れる寸前まで必死に走り込んだ。
その様子を、同学年で箱根駅伝を共に戦った田原貴之さん(現『味の素株式会社』執行役常務)は「苦しくなっても離れず、ガッツがあって非常に粘り強い。長距離の適応力はずば抜けていました。例えは悪いかもしれませんが、北海道ばんえい競馬の道産子のような走りでした」と表現する。
金さんの能力をいち早く見抜いていたのが中村監督だった。金さんが卒業後10年も20年もたって当時のマネージャーから聞いた話がある。
「1年生の4月、5000mのタイムトライアルを見た監督が『あいつの魂の走りを見ろ。早稲田の山の歴史が変わるぞ』って予言したというんです。それを聞いたときはゾクッとしました」
当時、中村監督はエスビー食品監督を兼務していたため、瀬古さんと一緒に練習することがあった。
「挨拶するぐらいでしたが、いつもドキドキ。『スターに会える!』ってファンの1人になって。瀬古さんは修行僧のように寡黙でしたけど優しかったですね」
瀬古さんにマッサージして世界の足を実感
さらに合宿では瀬古さんにマッサージをする機会もあった。筋肉に弾力性があって「これが世界の足なんだ」と感動した。反対に瀬古さんは「後輩にはよく揉んでもらったけど、やってもらった半分はお礼にマッサージしてあげたんですよ」と思い出を語る。憧れの人から受けたマッサージは緊張しっぱなしだったが、柔らかい手だったことを覚えている。
11月ごろ監督に「上りは得意か」と聞かれ思わず「はい」と答えた金さんは、実際の箱根駅伝5区のコースを試走することになる。だが、どんな道か、どこがゴールか、まったく知らなかった。
「先輩に聞いても山を指して『まぁその辺までだよ』としか教えてくれない。でもタイムトライアルだからひたすら坂道を上り続けました」
結果、前回走った先輩の記録を上回る好タイム。1年生ながら重要区間の5区に抜擢される。しかし、実績のない金さんは他大学から「当て馬」だと思われていた。
初めて挑戦する箱根駅伝。小田原中継所に行くと人の多さに圧倒された。
「うわぁ、これが箱根か! 正直、ビビりましたね(笑)」
標高差834mの天下の険。どう走ったか何も覚えていないほど、がむしゃらに走った。「実際には、順天堂大学の選手を抜くときにジープ(伴走車)の澤木啓祐監督が『聞いたことない名前のやつが来てるぞ』と声がけしたのは覚えていますけどね」と笑う。区間2位の快走で順位を4位から2位に押し上げた。無名の1年生の活躍は「中村マジック」と新聞に書かれるほど衝撃を与えた。
2年になると実力が認められ「千駄ケ谷組」に選ばれる。エスビーと早大で、世界に挑戦するトップ選手を集めた精鋭チームだ。金さんは合宿所を出て中村監督の自宅近くに引っ越す。千駄ケ谷組の練習は特別メニューで、文字どおり陸上漬けの毎日だった。しかし張り切りすぎたのか、秋ごろに貧血の症状がぶり返してしまう。
「対処法はわかっていたので箱根駅伝には何とか間に合わせた感じでした」
万全ではない状態でも区間2位と健闘。往路優勝のゴールテープを切る。
「本当は区間賞を取らなきゃいけなかったのに、駒澤大学の大八木弘明さん(現同大総監督)に負けたんです」
と悔しさをにじませる。
このころ、瀬古さんもOBとして早大のジープに乗っていたという。「中村監督の早稲田の校歌が名物でしたね。監督が『都の西北~』って歌うと選手は力が湧くんです」と懐かしむ。金さんも、
「僕の場合は『おまえがここに来るまでご両親は苦労して……』って話で泣かせにきましたね。頂上付近で校歌を歌ってくれて、学校の名誉を背負っているのだから苦しいけど頑張ろうって思えました」
偉大な指導者が率いた早大は、'84年第60回大会で30年ぶりの総合優勝を飾った。