名プロデューサーの目にとまり、作詞家に

 帰国後、ホテルのテレックスでアルバイトをしながら、歌詞をノートに綴り続けた。

「私が好きなレコードを作っていたプロデューサーに電話し、そのノートを見せたんです」

 これがきっかけで、そのプロデューサーがほかの人を紹介してくれるなどして、作詞家としての道が広がっていく。

 このころ、沢田研二などのバンドで、ベーシストやアレンジャーとして活躍していた音楽プロデューサーの吉田建さんとも知り合う。吉田さんは、当時の印象をこう話す。

「麻生さんと出会ったのは、'80年代の初めでしょうか。彼女は新人の作詞家で、目元が涼しげなお嬢さんという感じ。おしゃれのセンスもよく、“春”というイメージでした」

 一緒に楽曲を作ることは少なかったが、よくスタジオで顔を合わせた。映画を見に行ったこともあり、

「映画の後、食事をしながらおしゃべりをしたのですが、自分の美意識をしっかり持った人だなと思いましたね」

 と、吉田さん。

 そのころは、プロデューサーの注文に応じて、作詞・作曲し、アイドル歌手が歌うという時代。吉田さんは、麻生さんが注文に応えるためにかなり無理をして歌詞を書いていると感じたそう。

「そんな呪縛から解き放ってあげたいと思い、この歌手はあなたの目にどう映る? あなたが感じたものを書いてごらんと話したことがあります」

 そのアドバイスが効いたのか、麻生さんの肩の力は徐々に抜け、歌詞を提供する歌手とよく話すようになった。

「麻生さんは、10代だった私の目線まで下りてきてくれて、いろんな話を聞いてくださったんです」

 と言うのは、歌手でタレントの浅香唯さん。

「私の言葉にできない気持ちも酌み取って、歌詞に書いてくださいました」

 浅香さんのヒット曲『Believe Again』『セシル』などは、そうやって生まれた。35年も前のことを、浅香さんははっきりと覚えている。

「レコーディングには必ず来て、歌詞を曲にのせやすい言葉に変えてくださったこともありました。いつも、すごく褒めてくださったんです。うれしくて、調子に乗って歌いました(笑)」

 麻生さんの書いた歌を、今も大切に歌い続けている。

「麻生さんは年上なのに可愛らしくて、憧れであり目標なんです」

 浅香さんのほかにも、小比類巻かほる、小泉今日子、吉川晃司、徳永英明などのヒット曲を多数手がけ、'80年代のアイドル歌手全盛期の一翼を担ってきた。

麻生圭子さんが作詞した曲、德永英明『最後の言い訳』、吉川晃司『YouGottaChance』
麻生圭子さんが作詞した曲、德永英明『最後の言い訳』、吉川晃司『YouGottaChance』

難聴が進み、作詞家からエッセイストに転身

20代後半、作詞家として活躍していたころ、シンセサイザーを弾く
20代後半、作詞家として活躍していたころ、シンセサイザーを弾く

 しかし、耳の聞こえが悪くなり、音楽に携わることを断念する。

 若いときから徐々に聴力が落ちてくる、若年発症型両側性感音難聴という耳の病気で、ドラマ『silent』で目黒蓮扮する聴力を失った男性と同じ病気だ。麻生さんの場合は、高い音が聞こえなくなり、音楽を聴いていても、高音域になると音が消え、低音になるとまた聞こえてくる、高音急墜型感音難聴でもある。

 10代のときから心の病と闘い続けてきた麻生さんにとって、救いは音楽だった。音楽が、気持ちを落ち着かせてくれ、助けてくれたというのに、そのメロディーが聞こえなくなるとは、何という神様のいたずらだろう。音楽に関わることは諦め、エッセイストに転身。恋心を歌詞ではなく文に綴り、心のひだを鮮やかに描く。前出の吉田さんは言う。

「麻生さんが作詞家をやめたのを知らず、本屋で彼女の本を見つけて知りました。若いときからしっかり自分を持っていて、素養がありましたから、エッセイストになったのは、ごく自然だと思います」

 このころは軽度難聴で、高い音域は聞こえないものの会話は普通にでき、文章を書きながら、コメンテーターとしてテレビ番組にレギュラー出演し、ラジオにも出ていた。

「番組中に流された虫の音が私だけ聞こえずに困ったことも、発音があいまいな相手の話が聞き取れなくて、ボケてごまかしたこともありました」

 麻生さんの担当医・山崎博司先生が説明する。

「大人になってから徐々に進行する難聴の場合、屋内での一対一の会話は比較的できるため、周囲が難聴に気づかないことがよくあります。屋外や騒がしい場所での聞き取りや複数人の会話は難しくなりますが、本人は聞き取りにくいことを言い出せず、孤立することが少なくありません」