メキシコのタコス屋で汗水流した日々
留学先は首都メキシコシティにあるメキシコ国立自治大学。ラテンアメリカで最大規模を誇り、メキシコ国内で唯一、ノーベル賞受賞者を輩出した名門である。そこで外国人向けに開設している語学学校へ通った。1日3時間の授業を週5日受けていたが、8か月ほどがたったころに飽きがきた。すでにある程度、スペイン語を使いこなせていた上、通っていたタコス屋の店主と会話しているほうが、地元の顔なじみも増え、「生きたスペイン語」を体得できたからだ。
メキシコの食文化を象徴するタコスに関われないか。以前からの思いを実現するため、生活費が支給される国費留学という立場をあえて放棄し、いったん、日本に帰国。再びメキシコへ戻り、店主に頼み込んでスタッフの一員になった。
独立行政法人、日本学生支援機構(JASSO)が実施している「日本人留学生状況調査」によると、タカさんがタコス屋で働いていた2010年度、海外の大学などに派遣された日本の学生は約2万8800人。このうち留学当初の目的から離脱し、現地の飲食店勤務へと進路を変更した学生は、0・001%未満とみられる。
稀有な体験とはいえ、地元で愛されているタコス屋だから、仕事は厳しかった。屋台の組み立てに始まり、清掃、その日の食材の用意、開店後の接客、閉店後の後片づけなど、やることは大量にあった。そこで夕方から深夜までみっちり3か月間、働いた。タカさんが回想する。
「店主のレオナルドは現地では考えられないぐらい几帳面でまじめな性格でした。それでいてユーモアのセンスもあり、知的で愉快な人でした。会話の最中にわからない単語が出てくると、必ずメモを取らせるんです。そのおかげで語学学校では教えてくれない表現も身につけることができました」
海外生活における時間の「密度」をはかるバロメーターのひとつは、現地社会に溶け込めているか否かだ。一般的には年齢が若いほうがその耐性は高いが、これには語学力も含めて個人差がある。ローカルのタコス屋でメキシコ人スタッフに囲まれ、日本人が1人で働く。当然、そこでしか見えない景色がある。そんなタカさんの“コミュ力”と環境への適応力を、後に妻となる直美さん(34)も現地で感じ取っていた。
出会いは2人が語学学校に通っていた時で、共通の知り合いを介してだった。直美さんが語る。
「夫は友達が多かったですね。性別や国籍を問わず、いつも見かけるたびに違う人と歩いていました。広く深く付き合っている感じです。だからコミュニケーションがうまいんだろうなと思っていました」
直美さんはある時、居住先の部屋を探さなくてはいけなくなり、別の日本人学生とのシェアハウスで暮らしていたタカさんから「一部屋空いてるよ」と声をかけられたことを機に、親しくなった。抱えていた心の悩みにも寄り添ってくれた。
直美さんは日本人の父親とメキシコ人の母親のもと、日本で生まれ育った。物心ついた時には日本語の家庭環境だったため、もともとスペイン語も英語も話せなかった。ところが周囲からは、「お母さんが外国人ってことは英語できるんだよね?」
などと頻繁に尋ねられる。容姿が周囲と異なることも気になって、いつしかコンプレックスを抱くようになった。高校を卒業した後は、自身のルーツをたどる目的で、メキシコへ留学した。だが、治安も含めて異国の地での気を張った生活に心が疲弊し、うつ状態に陥った。
「そんな時に夫が『もっと肩の力を抜いて生きたらいいじゃん。このままいくと危ないよ』と、ストップをかけてくれたんです。もうこれ以上頑張らなくていいと。それで一気にネジが緩んでしまい、学校にまったく行けなくなりました。
自分が崩れる直前の、ギリギリの状態だったんだなと。そこまでガッツリ私の人生に関わってくれたので、この人だったら大丈夫だなと思いました」