ジョージ・ハリスンに憧れた理由
ビートルズの中でも、ジョージ・ハリスンに憧れた。理由があった。
「'71年にジョージがバングラデシュの難民救済コンサートをやったんです。世界で初めてのチャリティーコンサートですよね。それが映画になって、見に行ったら心を持っていかれた。ミュージシャンって、こんな大きなことができるんだと。ステージでジョージは白いスーツに赤いシャツを着てたんで、僕も映画を見た後、赤いシャツを買って帰ってきました(笑)」
お小遣いは全部ビートルズに注ぎ込んだ。レコードは海賊版まで買いあさる。歌詞の意味が知りたくて訳詞集も買った。それを読み込むうちに自分でも詞を書くようになる。さらに、ギターを買ったことで作曲に興味が湧いた。中学時代に初めて作ったオリジナル曲のタイトルは『ことほどさように』。
「ことほどさように考え抜いて、いま来た道を戻り行く……。全然ビートルズじゃない(笑)。僕らの世代はフォークも通ってきていますから、(井上)陽水さんや(吉田)拓郎さんの影響ですよね」
それでも演りたいのはビートルズ。中学2年でバンパイヤという名のバンドを結成し、ビートルズの楽曲をコピーした。杉山のパートはギター兼ヴォーカル。だが、
「ヴォーカルをやりたかったわけじゃないんです。聴きまくっていたからたまたま歌えたというだけで」
その“たまたま”が周囲には無二の才能に映った。高校2年のクラス替え。名簿順に着席すると、杉山の前に座っていた椎野恭一が声をかけてきた。
「LAMBで歌わない?」
椎野が所属していたラテン・アメリカン・ミュージック・バンドは、横浜で受け継がれてきたハイレベルなアマチュアバンド。そこでドラムを担当していた椎野は、筋金入りのロック小僧だった。
「生意気なことを言うと、すでに僕はライブハウスやイベントに出演させてもらったりしていましたから、この高校に自分の相手になるようなヤツなんていないと突っ張っていたんです。ところが1年生の11月に冷やかしのつもりで文化祭で見たら杉山が歌っていて……。
ビックリしました、歌のうまさだけでなく、そのころからオーディエンスを楽しませるエネルギーにあふれているというか、“ヴォーカリスト・杉山清貴”のルーツができあがっているような印象でしたね」(椎野)
LAMBのヴォーカリストとなった杉山は、椎野とともに地元のライブハウスに出演するようになる。高校を卒業するころには、杉山の澄んだ伸びやかなヴォーカルは地元のアマチュアミュージシャンの間で誰もが知るところとなっていた。