人気絶頂の中、解散。その真意とは
売れれば忙しくなる。テレビに出る機会も増えた。
「『夜のヒットスタジオ』の出演が決まったとき、藤田さんから“小ぎれいな格好をして行け”って言われたんですけど、私服しか持っていなくて。慌ててDCブランドの店まで買いに行きました」
杉山が買ったのは中学生のときには買えなかった白いスーツ。衣装代は事務所が立て替えてくれた。売れっ子にはなっても、大金を手にしたわけではなかった。
「給料制でしたからね。しかも、事務所はヴォーカルの給料しか想定していなかったから、1人分をメンバー全員で分けろ、みたいな話で(笑)」
プロジェクトには明確なイメージ戦略もあった。夏、海、リゾート、都会……。レコードのジャケットにも美しい風景写真が使われる。横浜育ちのメンバーたちも“湘南の若者”として振る舞わなければならなかった。
「テレビや雑誌の取材で、“今朝は何を食べましたか?”と聞かれたら、たとえメザシに納豆だったとしても、“クロワッサンとカフェオレです”って答えていましたよ」
プロジェクトの表現者としての役割をメンバーたちは十分に理解していた。'85年3月、5枚目のシングル『ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER』はJALのCMソングにもなり、『ザ・ベストテン』の年間ランキングで2位となる大ヒットを記録する。
しかし、絶好調と思われる勢いの渦中で、杉山たちはバンドの“限界”を感じ始めていた。
「林さんと康さんが書いているんだから“ヒットして当たり前でしょ?”っていう感覚です。売れても売れなくても僕らの責任じゃない、と」
アルバムには杉山やメンバーが手がけた楽曲が収録されることもあった。が、それは藤田氏の“ご褒美”みたいなものだった。ライブを重ねて演奏の技術が上がったことで、メンバーによるレコーディングを何度も直談判したが、“ダメ!”のひと言で却下。
「ファンに対して“僕らは演奏していません”とは言いたくないし、“演奏しています”とウソもつきたくない。そういう状況を、いつまでガマンするのか? '85年のツアー中でしたけれども、僕が最初に言い出したと思います。“もう、解散しよう”って。もちろん反対するメンバーもいました。今やめるのはもったいないというのは、まともな意見ですよ。でも、まともじゃない意見が通っちゃったんです」
ツアーの途中でオメガトライブを脱退
解散に全面的に賛成したのは吉田だった。そして、正式な解散を待たず、ツアーの途中でオメガトライブを脱退した。
「この状態でオメガを続けていたら絶対に衝突もあるだろうし、メンバーの間に亀裂が入るのがイヤだったんです」(吉田)
反対していたメンバーも、話し合ううちに解散が前向きな選択でもあると考えるようになったと杉山は言う。
「当時、僕らは25、26歳でした。30歳という区切りを見据えたときに、あと4、5年ある。その間に、例えば作曲家になりたければ作曲の勉強をしようよ、プロデューサーになりたければプロデュースの勉強をしようよ、音楽の世界で生きていくなら、30歳までに生き方を決めたいよねって。そんなもっともらしい話をしたことを覚えています」
解散の申し出を、藤田氏をはじめとするプロジェクトの関係者は当然のごとく引き留めた。しかし、ひと足早い吉田の脱退がメンバーの固い意思表示となって大人たちの決定を動かした。