売れなければ自己責任のソロデビュー
デビューから2年8か月。杉山清貴&オメガトライブは'85年12月24日に解散。
「短かったとも長かったとも思いませんけれども、アルバム5枚、シングル7枚、53曲も発表したんですから、めっちゃ濃かったですよね。もう十分やった、これからは新しいバンドでも組んで、30歳までに何かできればいいかなって思ってたんですけど……。レコード会社から連絡が来て、“杉山君、来年はソロデビューだよ”と言われたときは、“はぁ!?”ですよね。勝手に解散したんだからケツ拭きなさいよ、みたいな(笑)」
プロジェクトとの「契約」は残っていた。杉山はシンガー・ソングライターとして、ほかのメンバーは新ボーカルにカルロス・トシキを起用した1986オメガトライブとして活動していくことになる。
「今度は売れなかったら全部自分の責任ですからね。なかなか曲が書けずにいたら、藤田さんから連絡があってカルロスの『君は1000%』を聴かされたんです。“こっちはできたぞ、おまえはどうなってんだ?”と強烈なプレッシャーをかけられた(笑)。
だけど、あの時は曲作りの苦しさと同時に、初めて楽しさも知った。オメガトライブの一員として林さんと康さんの曲を歌わせてもらっているうちに、全体的なアレンジなども頭に浮かべながら、大人の曲が書けるようになったのかなという気がします」
'86年5月、杉山はソロデビュー曲『さよならのオーシャン』をリリース。この曲をプロジェクトの外から聴いた印象を、吉田はこう述べる。
「杉山君が持っているアメリカの西海岸的なテイストが加わって、彼が本当にやりたかった音楽に一歩近づいたなと感じましたね」
'87年5月、ソロ3作目の『水の中のAnswer』はオリコンチャートで1位に輝いた。そして、サポートメンバーに椎野を迎えてライブで共演する機会も巡ってきた。
「会場に杉山のお母さんも来ていて、久しぶりにお話ししたんです。そのときに、“清貴が美大に行かずに音楽の世界で生きていくと言ったときは椎野君を恨んだけれど、今は感謝してるわよ”って言ってもらって。うれしかったですね」(椎野)