念願だった女子大への進学
本好きだったという北原は幼いころからたくさんの本を読んだが、中学、高校で氷室冴子や新井素子などを読むようになってから、男性が書く本が読めなくなってしまったという。
「女の人が表現する女の子が主人公の小説というのが『これは自分たちのものだ』と刺さったんだと思います。そこから上野千鶴子さんや青木やよひさんなど女性が書いたフェミニズムの本を読み始めて、私が感じていた違和感が何だったのかがわかってきました。そして私が中3のときの1985年に男女雇用機会均等法が制定されて、それを新聞で知って『今までこんなに差別されてたんだ!』と意識化されました」
中学受験で女子校へ行く夢が叶わなかった北原は高校受験でも女子校を目指すが、またも不合格となってしまう。進んだ先は県内有数の共学進学校だったが、男子生徒の数が多かったという。
「今考えると男が多いっていうのは、不正入試だったのかなって疑っちゃいますよね? でもそれに無自覚で、威張ったり、女を品定めするような感じだったりなど、“上に立っている”という男の世界や乱暴さは嫌でした」
妹のあかりさんは「姉は小学生のときから男子に人気があって、不思議にモテていたんですよ。よく告白もされてたみたいです」と言う。北原も文化系の男子や、所属していたワンダーフォーゲル部の仲間とは安心して話すことができ、付き合った優しい男子もいたという。しかし大学は絶対に女子大へ行くと心に決めていた。あかりさんは、北原が猛勉強していたのを覚えているという。
「それまで姉は全然勉強していなかったのに、高3の夏に突然勉強をし始めて、その勢いがすごくて。いつも机に向かって背中を丸めて勉強していました。あるとき学校帰りのバスで単語帳を見て必死に勉強している女の子がいて、すごいなと思ってたら、姉だったんです(笑)。バスを降りても歩きながら単語帳を見ていて、声をかけられませんでした」
時代が平成に入った1989年、北原は「自分を入れてください」と墓参りまでした日本初の女子留学生であった教育者・津田梅子が設立した女子英学塾を前身とする津田塾大学の学芸学部国際関係学科に入学。柏から大学近くの東京の小平市へと引っ越し、念願のひとり暮らしを始めた。
「高校生のとき、私はもう完全にフェミニストでしたから、女性がちゃんと生きられる社会にしたいと思っていて、それにはちゃんと経済的に自立しないといけない、そのためにはいい会社に入らないといけないと考えていました。それは津田塾だったら可能なんじゃないか、いろんな人に出会って、違う世界に行けるんじゃないかという気持ちがあったんです」
北原は18歳にして、ようやく心が落ち着く環境を手に入れた。
“女の経済”をつくる第一歩を踏み出す
将来はキャリアウーマンとしてバリバリ働くと決め、難関だった国際金融論のゼミへと進んだ北原だったが「全然興味がないと気づいたんです」と苦笑する。
「それよりも社会心理とかジェンダー、性平等といった社会に自分は関心がある、じゃあそれには何が必要かと考え、4年生で教育学のゼミに移って性教育を学び始めました。性のことをちゃんと学ぼうと思ったのは、自分がずっと持っていた違和感とか悔しさって、自分の身体や性の話だったことに思い至ったから。でもそれで“働く”ことが何だかわからなくなってしまって、未来が見えなくなってしまったんです」
バブル経済がはじけ、就職氷河期の始まりとなった1993年、北原は就職活動をせず、日本女子大学大学院の教育心理学専攻への進学を決めた。
「大学を卒業してすぐ、国際金融論のゼミで一緒だった子が自殺してしまったんです。でも同じゼミ生たちは誰も葬儀に来なくて……びっくりですよね。そのとき、参列していた国際金融論のゼミの先生から『経済やる人間は冷たいんだよ。でも君は女の経済をつくるようなことをやれたらいいな』と言われたんです」
その後、大学院での勉強が行き詰まってしまう。
「哲学とか教養ってほとんどが男の世界で、世界のベースが男でできてることにもう耐えられなくて。しかも性教育ではなく、自分は性に関して表現したいことに気づいたんです。女性向けに発信する、性に関するエンターテインメントをつくりたいんだって思ったら、それはここじゃないと思って。だったら、もう自分で何か仕事したほうがいいなと思って」
大学院を中退した北原は、学生時代にアルバイトをしていた編集の仕事へ飛び込む。書き仕事のため、当時は世帯普及率がまだ2割にも満たなかったパソコンを購入したことで、黎明期のパソコン通信やインターネットに触れ、「これなら組織に入らなくても仕事ができるのではないか」と思い、大学時代の友人と1995年にホームページ制作会社を立ち上げた。