転機となったハリウッド作品
真田が初めて海外進出を果たしたのは、'82年に香港で製作された映画『龍の忍者』。この出演をきっかけに、真田は香港やアメリカでアクションスターとして名を馳せる。
'89年、千葉さんとギャラを巡って対立。同年、真田はJACを離れる。
ここから少しずつ、真田の出演作が変化していく。真田は、過去の雑誌インタビューでは、こう話していた。
《歌もダンスもいろいろやったわけですが、なぜかアクションスターという看板がつきました。意識的にアクションを避けて、出演作を選ぶようにしました》
真田が出演した'90年公開の映画『病院へ行こう』は、病院の内情をユーモアたっぷりに描くコメディーだ。前出の原口氏も、特殊メイク担当として製作に参加していた。
「真田さんは、階段から転落したことで右足を骨折して入院する会社員の役。そこで私が気になったのは、真田さん本人が階段から落ちたのか……ということ。助監督にこっそり聞くと“真田さん本人がシッカリと転がり落ちました”と言うんです。当時はもう売れっ子でしたから、ケガでもしたら大変なこと。でも、アクションが大事な映画じゃないのにスタントマンを使わないなんて“さすが!”とうれしく思ったのを覚えています」
危険を顧みないリアルな演技にこだわる一方、20歳のころからロンドンやニューヨークを訪れて、本場の映画や舞台などに触れた。自身の演技に足りないものは何か、自問自答し続けた真田の思いは、このころから海外へと向いていた。
転機となったのが、'03年に公開されたトム・クルーズ主演の映画『ラスト サムライ』。映画業界関係者が当時を振り返る。
「海外で日本を舞台にした作品を作ると、まったく違う世界観になってしまうことがあります。真田さんはそれが許せず、おかしなところは“直したほうがいい”と製作側に意見した。しかし、疎んじられることも多く、現場にいた日本人スタッフからは“真田さんが、かわいそうだった”という話も聞こえてきました。意見が通らないことが、かなりあったみたいです」