「シーフードドリア、一緒に食べたいな」

 そう言ったのは彼女のほうだった。本当に失礼なのだが、彼女の名前を正しく思い出せない。それに、彼女との関係性も、人には説明できないものだった。もしくは、言葉にしたくはない関係だった。

 そんな彼女と僕は、いつかのある日、ホテルニューグランドに泊まった。僕はあのときも仕事で行き詰まっていたが、それ以上に彼女は、人生に行き詰まっていた。何度か理由を聞いたことはあったが、「言葉にすると怒りが溢(あふ)れてきてしまいそうだから」と、なかなか教えてくれない。

「遊びに来てよ」

 ふたりで一泊して、朝は中華街で中華粥(がゆ)を食べる予定だったのに、起きることができず、チェックアウトギリギリまでぐずぐずしてしまった。一度ちゃんと休めたことで、毛穴という毛穴から、疲れと澱(よど)みと世間体が漏れ出すような朝だった。

 僕たちは身体を引きずるようにしてチェックアウトをして、近くのマクドナルドでコーヒーを買った。

 山下公園のベンチに座り、コーヒーをすすりながら、しばらくぼんやりしていた。空は雲が一つもない快晴で、暑くも寒くもない。風だけが強い日だった。

 ベンチに体育座りをして、ぼんやり行き交う人々を眺めていた彼女が、仲良くランニングをする老夫婦を目で追いながら、「いいなあ」とだけつぶやく。

 そのとき、また氷川丸の汽笛が鳴る。あまりの汽笛の音の大きさに、ケラケラと大声で笑い出す彼女。季節は初夏で、僕はまだ若かった。彼女もじゅうぶん若かった。

 彼女はもうすぐ仕事の関係でカナダに行ってしまうということをそのとき教えてくれた。「遊びに来てよ」老夫婦の姿を目で追いながら彼女がゆっくりと言う。「うん」とは答えたが、僕のパスポートは何年も前に有効期限が切れていた。

 それに「温泉に行きたい」という細(ささ)やかな夢ですら、簡単に叶(かな)えることが難しいほど仕事が多忙を極めていた。

「ちょっと風が冷たい。シーフードドリア一緒に食べたいな」と彼女が言った。