恩讐の彼方に母とのけじめ
ところで17歳で家出して以来、音信不通だった母との関係はどうなったのだろうか。話は、ツレちゃんと出会う前にさかのぼる。ちょうど小室哲哉サウンドが流行っていた
'90年代半ばのことだ。
「よく毒親本の帯に、“逃げていい”“捨てていい”って書いてあるでしょ。もちろんそれは正解なんです。私だって、逃げたからこそ生きてこられたわけだから。ただ、この地球上のどこかに実際にいる親からは逃げられても、親はこの頭の中にもいる。その親が脳内で“おまえにはできない”とか“おまえはこういう人間だ”って、ずっと言ってくるんです。だから逃げるだけでは不十分。それを克服するためには、いろんな方法があると思うんですが、私の場合はもう向き合うしかないと決心して」
家族というものの価値がわからなかった歌川さん。だが、清水さんや青木さんカップルから、価値があるものだということを学んだ。だとしたら、自分もそれをつくり出してみたい─。そんな気持ちが歌川さんを突き動かした。
「お母さんがかわいそうとか、そういう気持ちからではないんです。自分のために乗り越えてみせる、って。“自分がゲイということは変えられないから、それだけは認めてください。ほかは何ひとつ逆らいませんから”というスタンスで、もう行(ぎょう)のような感覚でやってました。でも2年間、それはそれは大変でしたね」
約10年ぶりに会った母はうつ病や高血圧、またアルコールの摂取量も多くなっていた。不動産ブローカーの仕事をしていたので、時には「伊東の別荘の鍵をかけ忘れたからかけてきて」と言われ、片道3時間かけて到着すると鍵はかかっていた、ということも。生活面や健康管理、仕事のフォローなど、母のために粛々と動く歌川さんには、ひとつの確信があった。
「家族でも会社でも、その集団の中でいちばんパワーを出している人が、いちばん力を握るんです。だから、最終的には絶対に私が力を握る、と。そして、そのとおりになりました。“お酒飲んでもいい?”とか、何でも私に聞くようになったんです」
そして、ついには「たいじがいてよかった」「たいじから教わることがいっぱいある」と言うまでになる。また、周りの人に息子のことを自慢するようにもなったのだ。そのとき、“勝利したな”と、歌川さんは感じたという。だが、その後しばらくして、母は事故で他界した。
「家族というものを築いた、といえるほどの時間を得るところまでは、いけなかったけれど、自分の中で解決した部分がすごく大きかったです。加害した側から“私が悪かった”とか“あなたがいてくれてよかった”と言われることは、すごく大きな意味があるって、わかりました。もちろん、やられてきたことはたぶん一生消えないですよ。でも“おまえはこうだから”っていう声が起動する回数は減るし、別のものに変わっていくんです」
そして変わった結果が、執筆や講演などの活動につながっている。脳内に“あの日の母”がいるからこそ、自分と同じように虐待やいじめにあっている/あってきた子に対して、してあげられることがあるなら何でもしてあげたい。人ごとではなく、自分のことのように感じるのだ。親指と人さし指でマルをつくって頭に当て、「だから、これはアンインストールしません」とニコッと笑う歌川さんの顔には、乗り越えた者の強さがしっかりと刻まれていた。