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ー ずぶ濡れのまま3時半からの朝の番組の会議に行くことも
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ー テレビでできなかったことに挑戦している今が心から楽しい

 23歳でフジテレビに入社し、今もなお第一線で活躍し続ける長野智子さん。57歳でメインキャスターの降板、私生活では身内を次々と見送るなどアラフィフからアラ還にかけて、激動の日々を過ごしたという―。

ずぶ濡れのまま3時半からの朝の番組の会議に行くことも

 長年ニュースキャスターを務め、“テレビ朝日の報道の顔”として活躍してきた長野智子さん(61)。知的で落ち着いた印象が強いが、実はバラエティー畑の出身だ。

 1985年、「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンを掲げていた黄金期のフジテレビにアナウンサーとして入社。『笑っていいとも!』など数々の伝説的番組を手がけた名プロデューサーの横澤彪さんの指名で、新人ながら『オレたちひょうきん族』の3代目ひょうきんアナに抜擢され、人気を集めた。

ニュースを読むだけでなく、女子アナにタレント性が求められ始めた時代で、私も芸人さんと同じようなことをやらされていました(笑)」(長野さん、以下同)

 事件現場の最前線から情報を届けたいと報道を志望していたが、毎週25%の視聴率をたたき出す『ひょうきん族』の一員として、必死に頑張っていたという。

報道をやりたい気持ちはありつつ、20代の私にとってはスタッフの方々が私を指名してくださったことが光栄で、その期待に応えたい気持ちが強かったんです

 当時は寝る暇もない忙しさだった。

月~金曜は朝の情報番組のキャスターをやっていた上に、水曜に『ひょうきん族』の収録があり、他にもドラマ出演や特番の司会の仕事があったりと、家に帰れない日が多かった。『ひょうきん族』の収録で、夜中の3時に罰ゲームで水をかぶって、ずぶ濡れのまま3時半からの朝の番組の会議に行くという生活を続けていました。今ならコンプライアンス的に絶対ダメな働き方ですね(笑)

 無我夢中で働いていたが、27歳で結婚と同時にフジテレビの退職を決意。自分のペースで働けるフリーアナウンサーの道を選んだ。『ひょうきん族』の活躍を評価されてバラエティーの司会を数多く任されたが、30歳を過ぎたころ壁にぶつかった。

バラエティーで結果を出そうと頑張るけれど、人生をかけて笑いにぶつかっている芸人さんと同じレベルでは挑めず、失敗した時には“本当にやりたいのは報道だから結果を残せなくても仕方ない”と逃げていました。かといって、報道の仕事をするための努力は何もしていない自分が嫌になってきて

 求められることとやりたいことの間で葛藤していた時に、夫の5年間のアメリカ転勤が決まる。

これが報道に向き合う最後のチャンスだと、私もジャーナリズムの本場であるアメリカに行って、大学院で一から学ぶことを決めました

「ミスDJ」を務めていた女子大生時代(画像提供、文化放送)
「ミスDJ」を務めていた女子大生時代(画像提供、文化放送)

 そして大学院卒業後の2000年、念願かなってテレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』のキャスターにと声がかかり、帰国。それから20年間、同局の報道番組に出演して国内外の取材も積極的に行った。'17年からは『サンデーステーション』のメインキャスターを務めたが、'20年に突然番組を降板することになる。57歳の時だった。

視聴率は良かったのですが、テレビ局側が若い人向けに番組をブラッシュアップしたいので、キャスターも若手に交代したいと。この番組に人生をかけていたので、それを聞いた時はやっぱりすごくショックで。でも、世間では定年退職になる年頃だとも思い、諦めもつきました

 降板後も自ら取材、発信をしていきたいと考えていた矢先。師と仰ぐ田原総一朗さんから「今後、ジャーナリストとして信念を持って取り組みたいことは何?」と問われ、自分がすべきことはキャスター時代から課題に感じていた女性国会議員を増やす活動だと気づいたという。