目次
Page 1
ー 迷わず「やります」と回答
Page 2
ー カタツムリをめぐって大ゲンカ
Page 3
ー “スワンボート”で再び海に
Page 4
ー 最も過酷な旅の始まり
Page 5
ー 騙され続けても「感謝しかありません」

 

 '92年から'03年まで放送された『電波少年』シリーズ。アポなし突撃、ヒッチハイク、無人島脱出、東大受験など今では考えられない無謀な企画のオンパレードだった。当時は出川哲朗有吉弘行らも番組に出ていたが、思いもよらない転身を遂げた人もいて……。

「もう二度と、やれないと思いますね……。若さゆえの無知があって、できたことだと思います」

 かつて、お笑いコンビ『R(ロッコツ)まにあ』として出演し、現在はピン芸人しゅくはじめは『電波少年』について、そう振り返る。

 1996年、偽の取材で呼び出されたが、取材スタッフもマネージャーも一向にやって来ない。しょうがないので2人は食事に行こうと歩き出した、そのときだった。

「どこ行くの? じゃ、俺が奢ってやるから乗ってけよ」

 路上で待ち構えていたTプロデューサーのひと言から、約1年半にわたる“過酷な日々”が始まった。

迷わず「やります」と回答

「車に乗ると、アイマスクとヘッドホンを渡されました。そこで“あぁ、何かが始まるんだ”と思いました。ヘッドホンから流れる音楽は、想像以上の大音量でうまく考えることができなくなって……。周囲に誰がいるかもわからなくて、相方の中島ゆたかがいるのかもわからず不安でした」(しゅくはじめ、以下同)

 到着したのは、愛媛県にある無人島。ここから自力で脱出し、人が住む場所までたどり着くことがゴールだと告げられた。

「“やりますか、やりませんか”と、選択を迫られて、迷わず“やります”と言って企画がスタートしました。私たちがテレビに出たのはこれが最初で、きっといろいろ番組からのケアがあるとばかり思っていました。それが、みんな帰ってしまうんです……。最初はドッキリ番組なのかと思っていました。戻って来て“テッテレー”と言われるのかな、と」

 しかし、数時間ほど待ったが誰も戻って来ない。海岸沿いでたたずんだ2人は、これが“リアル”だと気がついた。傍らに置かれた鞄を開けると、水のペットボトル1本と使いかけのマッチ、そしてカメラが入っていた。

「なので、放送された映像の98%は僕が撮影したものです。ほかには、Tプロデューサーから“約束どおり奢るよ”と言われ、お菓子を渡されただけです。マッチ箱には、マッチ棒が10本ほど入っているだけ。相方とは“どうしよう”と茫然としました」