売れてバレた“偽装”

 プライベートで競馬場にお供をすることもあり、少しずつ認められてきたと感じた。

「とにかくオヤジはカッコよかった。オヤジの横にいるだけで気分がよかったんです。だから同棲していた女性に“俺は売れないから、オヤジの一番の使い走りになる”と言ったら叱られました。“なに弱気なこと言ってんの! 譲二は絶対に売れるんだから、簡単に夢を手放さないでよ”と言われて、ハッと気がついた。そうだ、俺はちゃんとした歌手にならなきゃいけないんだ、そのためにオヤジに一生懸命ついてるんだ、と」

 鳴かず飛ばずの日々は続いたが'80年に運命の曲と出合う。それが『みちのくひとり旅』。

「初めて聴いたとき、ゾクゾクッとしました。この曲を誰にもあげないでほしいと、音楽ディレクターと作曲家に土下座して頼みました。発売から10か月ぐらいで有線放送で1位になり、フジテレビ系の『夜のヒットスタジオ』で歌って、その日から世界が変わりました。放送の翌日、福岡でキャンペーンがあって、誰かが俺の顔を見て“キャー”と叫んだら、そこにいる全員がキャー。俺にですか? みたいな感じ。それが、みかん箱のステージで歌った最後」

『ザ・ベストテン』(TBS系)には24週連続で出演し、寺尾聰の『ルビーの指環』に次ぐ年間2位の大ヒットに。

 売れたことで、ちょっとした“偽装”がバレてしまった。

「3つサバを読んで、28歳にしていたんです。そうしたら公開番組で“本当に高校1年生のときに甲子園出たんですか?”と聞かれちゃって。“年齢は嘘で、本当は巳年じゃなくて寅年です”って白状するしかなかった(笑)。そこで31歳に戻しました」