小堺の初めてのテレビ出演

 民間人初の南極料理人となった父は、一躍“時の人”となった。その息子ということで、小堺もNHKの特番のインタビューを受ける。これが小堺にとって初めてのテレビ出演となった。

「何を話せば番組ウケするかなと考えて、“大人になったら父のような料理人になりたいです!”って答えました」

 だが、料理人になるつもりはなかった。そして、芸能人になるつもりもなかったが、6年生になると合唱団から選抜され、NHKの新番組『歌はともだち』にレギュラー出演することになった。

「歌だけじゃなく、楽器を演奏したり、コントみたいなことをやったり。メンバーには、後にずうとるびでデビューする山田隆夫君もいて、僕ね、山田君に殴られたんですよ。“まじめにやれよ!”って。そのときに思ったんです、芸能界っていうのは、山田君みたいに才能がある人が真剣に努力して目指すところであって、僕みたいにいいかげんな気持ちで足を踏み入れたらダメなんだと。

 結局、1年くらいで僕だけ番組から降ろされて、親父からも“中途半端にやっているからだ”と言われました」

 中途半端な気持ちだったことには理由があった。小堺には、すでになりたい職業があった。デザイナーである。

「美術はずっと成績が5だったんですよ。中2のころには都立の工芸高校のデザイン科に行くと決めていたんですけど、健康診断で色覚検査を受けると、みんなが見えている数字が僕には見えなくて……」

 色とりどりのモザイクの中に浮かぶ数字が識別できない。病院で再検査を受けると、赤緑色弱と診断された。

「当時、色弱だと工芸高校の受験資格がなかったんです。眼科を5つ回ったんですけど、どこも診断は同じ。ショックでしたね。自分の中で将来に通じる扉がバタンと閉まった気分でした。

 落ち込んでいると、親父が“おまえ、色弱なんだって?”って軽く言ってきた。“このクソじじい、無神経なこと言いやがって”って、ムッとしてたら、親父は続けて“いいなあ、人と違う色が見られて”って言ったんですよ。僕、単純だから、“あ、そうか!”って思って、気持ちが軽くなったんですよね」

 これには後日談がある。父の秀男さんは'67年に第15次南極観測隊の料理人として2度目の南極を訪れた。そして'97年12月、3度目の南極はテレビ番組の企画で実現した息子との二人旅。親子水入らずで思い出話に花が咲く。41歳になっていた小堺は、今の小堺と同年代で現役の料理人である父に尋ねた。

「あのとき言ったこと、覚えてる?」

「ああ、あれはオレにしたら賭けだったな」

 もしかしたらグレてしまうかもしれない─そう思いながらも、希望を見失った息子が自力ではい上がることを願って、父はあえて薄情な言葉をかけたのだった。

 そして、父は賭けに勝った。 

 デザイナーの道を断念した小堺は商業高校に1番の成績で入学。卒業したら無試験の専門学校に行くつもりだったが、2度目の南極に赴任していた父に電報を打つと、「オマエハニゲルノカ」と返信が来た。

「何も気にかけていないようでいて、親父はうまいところを突いてくるわけですよ(笑)」

新たな“扉”

『ぎんざNOW!』に出演する直前のころ
『ぎんざNOW!』に出演する直前のころ

 遅まきながら受験勉強を始め、一浪して大学に進学。そして3年生になったある日、新たな“扉”が目の前に現われた。

「『歌はともだち』に一緒に出ていた山尾百合子ちゃんと久しぶりに会ったときに、田村正和さんのモノマネとかやってたら、“『ぎんざNOW!』に出てみれば?”って言われたんです」

 当時、若者たちの間で大人気番組だった『ぎんざNOW!』(TBS)には、「しろうとコメディアン道場」という視聴者参加の名物コーナーがあった。5週勝ち抜いて、チャンピオンになれば番組にレギュラー出演できる。

「出る気はなかったですよ。『歌はともだち』での経験が予防注射になって、自分には芸能界で仕事するのは無理だと思っていましたから。ところが彼女が勝手にハガキを出して、オーディションを受けることになっちゃった。5月21日です、忘れもしません、親父の誕生日なんで(笑)」

 オーディションに合格し、本選へ。得意のモノマネを駆使したネタで、小堺は見事に5週勝ち抜き、第17代チャンピオンになった。番組の司会を務めていたタレントのせんだみつおは、そのときの印象をこう述べる。

「堺正章さんのお父さんで堺駿二さんという喜劇の名優がいらっしゃったのですが、小堺くんの動きや雰囲気から堺駿二さんと同じものを感じました。コメディアンとして天性の資質を持った若者が出てきたなと思いましたよ」

 期せずして芸能界への扉は開いた。だが、扉の向こう側へ駆け抜ける準備は、意識下で整えられていたのかもしれない。オーディションのエントリーシートに、小堺は「マチャアキみたいになりたい」と書いていた。芸能人は無理と思いながら、胸のうちにはコメディアンに憧れる気持ちが育っていた。