飛び石の上を渡ってきた若手時代
「テレビに出るようになって、家族は口をきいてくれなくなりました。妹がいるんですけど、“恥ずかしい”って言いましたからね」
小堺の芸能界入りに家族は反対だった。両親は、水商売ではなく会社員になることを息子に望んでいた。しかし、気がつけば小堺はすでに扉の向こう側を歩いていた。
「テレビ番組の前説のような仕事がちょこちょこ入ってきて、就職活動もしていなかったから、引き返せなくなっちゃったんです。だから親父に、“3年間だけやらせてくれ”って頼みました。“どうせティッシュペーパーみたいに捨てられるだけだ”と言う親父に、“だったらハンカチになる”って言い返して」
名言(?)を吐いた以上、行動で示さなければならない。折しも、黒澤明監督の『影武者』が製作発表を行ったばかりだった。小堺は傀儡師のオーディションを受けて不合格になるものの、主役の武田信玄役に当初決まっていた勝新太郎さんが俳優養成所(勝アカデミー)を開設することを知り、勇んで受験。狭き門を突破し、第一期生として入所を果たした。
「担任の先生が岸田森さん、講師陣は森繁(久彌)先生、津川雅彦さん、川谷拓三さん、石橋蓮司さん、太地喜和子さん……、そうそうたる方たちで、勝さんご本人の講義もあったんですよ。勝さん、僕らが行くような居酒屋で一緒に飲んでくれたこともあったんですけど、いきなり店員さんに“今から貸し切りにしてくれ”って言って……」
店員がオドオドしていると、「貸し切りだって言ってんだろ!」と勝新がすごむ。「オーナーに確認してまいります」と、あたふた奥に引っ込んだ店員が再び戻ってくると、今度は穏やかに「いや、いいんだ、オレたちは君に勉強させてもらったんだ」と言って1万円札をチップで渡す。そして小堺たち生徒に向かって講義。
「“いいか、今のが本当に驚いたときの人の顔だ、よく覚えておけよ”って(笑)。演技の指導でも、一生懸命セリフを覚えて行くと、そういうのがいちばんタチが悪いって怒られた。“前の日に稽古して、これで褒めてもらえると思ったことを冷蔵庫に入れて、そのまま現場に持ってくるからヒヤッとするんだよ”と。大事なのは現場の温度だと教えてくれたわけですけど、当時の僕はまだそれがよくわかっていなかった」
勝アカデミーに通いながら、『紅白歌のベストテン』(日本テレビ系)の前説もやった。『見知らぬ恋人』(朝日放送)では端役ながら初めてドラマにも出演。しかし、
「NG16回出して、主演の小川真由美さんから“この子、大丈夫?”って言われました。本当に現場では脂汗かいて、恥かいて、“帰れ!”って怒鳴られたことも何度もありましたよ」
それでも誰かが声をかけ、次の一歩を踏み出す機会を与えてくれた。「一本道じゃなくて飛び石の上を渡ってきた」と小堺は言う。父と約束した3年がたつ前に芸能事務所『浅井企画』にも入れた。看板タレントである萩本欽一の番組にいきなり起用されるほど甘くはなかったが、事務所には『ぎんざNOW!』で知り合った先輩─しろうとコメディアン道場の初代チャンピオンであるラビット関根(関根勤)がいた。
小堺と関根は下北沢のライブハウスでコント修業に励んだ。客が3人しかいない日もあったが、'81年にはラジオ番組『夜はともだち コサラビ絶好調!』(TBSラジオ)もスタート。そして'82年、『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)に出演。関根と組んだ「クロ子とグレ子」で大ブレイクし、お茶の間に顔と名前が一気に知られた。しかし「売れた」という実感はなかったと小堺は言う。
「クロ子とグレ子って、『欽どこ』のメンバーの中ではメインから外されたサブキャラなんですよ。大将(萩本)からも“ウケなかったら放送しない”と言われていて、関根さんも僕も責任を感じないで気楽にやれたから、それがよかったんだと思います。だいたい僕は大将にホメられたことがありませんでしたから。一生懸命やりますってやる気を見せれば、“一生懸命は誰でもできる”って言われるし、笑わせようとすると“ギャグ言ってちゃダメ”と言われるし、あげくの果てに“おまえは売れない、ピン(1人)の仕事は来ないよ”とハッキリ言われた。悔しくて稽古が終わるとディスコへ行って、“萩本、死ねー!”って叫んでましたもん(笑)」