いい加減な話をしよう
「わたしさ、有名になりたかったなぁ……」
彼女がポツリと言った言葉をふと思い出す。あの夜、もっといい加減な話だけすればよかったと、ずっと薄いもやがかかったような後悔を引きずっている。
僕たちはあの夜、精神的にはギリギリの場所にいた。突き詰めたら「死にたい」と吐露してしまいそうな閉塞感の中にいた。
昔、いじめにあったとき、担任教師は楽観的でいい加減な人だった。上履きから教科書まで隠された僕に、「まあさ、こういうのも流行りみたいなもんだから」と言って、僕の肩をポンポンと叩く。担任教師はさらに、職員室の脇でタバコを吹かしながら、こう続けた。
「流行りは全部すぐ終わるだろ?ブームって一過性だからさあ」
今なら、最初から最後まで全部アウトだろう。でも、あのときの僕はたしかに、その楽観的でいい加減な言葉に救われていた。
答えは常に一つじゃない。右か左か、上か下か、黒か白か、だけじゃない。保留もあれば、逃げもある。それどころか、答えは常に無限だ。
選択肢がいくつかに絞られて見えたら、ギリギリの精神状態に近づいているから、一旦全部傍(そば)に置いて、どこにもたどり着かない話でもすればいい。
答えなんて出なくても、希死念慮を、時間を、強迫観念を、やり過ごせる。それでいい。
だから、あの夜もどこにもたどり着かない、答えなんてない、これから先の話だけをすればよかった。そうすれば、彼女はいまのこの景色を見れたかもしれない。
回顧展ではない、華やかな個展を開いていたかもしれない。そうすれば、僕はその個展に行って、あの夜の会話の続きができただろうか。あの問いに答える彼女が見たかった。
「有名になってどう?」
真面目に答えようとする彼女に、僕はまたいい加減な聞き方を笑いながら咎められる。
「ね~、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる。ねえ、そこから見える景色はどう?」
燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。
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