美智子さまの文書回答
同じ年の10月、誕生日に際しての文書回答で上皇后美智子さまも、
《対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います》と、綴った。
2014年春、私は対馬丸事件から70年目の沖縄を訪れ、上原清さんと面談をしたり、対馬丸記念館や関係者などを取材し、3月30日付の毎日新聞に「悲劇を語り継ぐ―『対馬丸』撃沈から70年」という大型記事を書いた。
事件当時、上原さんは国民学校4年生で、10歳だった。上原さんは仲間と太い竹をロープで結んだイカダをつくり、それに乗って漂流した。戦後、小学校校長などを務めたが、得意の絵筆を握り、撃沈された翌朝の、海面で必死に助けを求めた子どもたちを描くなど絵画制作や語り部として悲劇の継承に努めた。
2004年末、調査のためアメリカに行き、ボーフィン号の乗務員と面談したこともある。「敵や味方ではない。憎むべきものは戦争そのものだと気づかされた経験でした。そして対馬丸の子どもたちは平和のメッセンジャーとして永遠に生き続けるだろうと……」。このように上原さんは、記事の中で語っていた。
那覇市若狭にある対馬丸記念館は、亡くなった子どもたちの遺影や遺品などを展示し、後世に正しく事件を伝えようと2004年8月、開館した。運営する公益財団法人・対馬丸記念会理事長の高良政勝さん(84)は、4歳のとき、家族11人で対馬丸に乗り込み、9人が犠牲となる中、17歳の姉と2人だけ生き延びた過酷な体験を持つ。