負けず嫌いで、褒められて伸びるタイプ
増田は1964年1月1日生まれ。くしくも、日本で初めてのオリンピック東京大会が開かれた年である。
両親は、千葉県夷隅郡岬町、現在のいすみ市で専業農家を営んでいた。
幼いころの増田について、車の開発研究者で3歳下の弟・光利さん(57)は、普段は全力で守ってくれる優しい姉だったという。
「私が幼いころ、親戚の家でお漏らししたとき、姉がはいていたパンツを貸してくれたそうなんです」
しかし勝負がからむと人が変わったように負けず嫌い。
「ゲームでも負けると“もう1回”と、自分が勝つまでゲームを続けていました」
おっちょこちょいな部分もあって、忘れ物の常習。登校の途中に忘れ物を思い出し、家にとって返し、全速力で走って戻ると、まだ登校中の友達に追いついたという。通学距離は片道2・5km。長距離走は速かったのだ。
ただ、中学校では自分の才能に気づかずテニス部に入部。人気アニメ『エースをねらえ!』の岡ひろみに憧れていたのだ。しかし向いていなかったようで、壁打ちばかりの日々。転機が訪れたのは中2のとき。町内一周駅伝大会の助っ人として出場すると高校生男子3人を抜き去る快挙。陸上部に引き抜かれる。
水を得た魚とはこのことで、大会に出るたびに記録を更新。千葉県大会の800m競走では県新記録をたたき出した。
「よい成績を出すと、朝礼で校長先生が全校生徒の前で私の活躍を褒めてくださるんですよ。それがうれしくてね。次も頑張ろうって」
3年生のときには、800mで全国4位に入り、強豪の成田高校からスカウトがくる。白のベンツに白いパンタロンスーツといういでたちで現れたのは滝田詔生監督。俳優・滝田栄の兄で鬼コーチの風情。「俺と一緒に富士山のてっぺんに登ろう」の一言にハートを射貫かれ入部した。
監督の自宅の離れにあった部屋に下宿させてもらった。しかし襖1枚隔てた部屋にライバル選手がいた。
「私、彼女を太らせようと思ってお茶碗にご飯をぎゅうぎゅう詰め込んだんですよ。自分は少しだけ食べてね。幼かったですね。そんなことをしていたからか、貧血で走れなくなったんです。当時の私は協調性もなく、そういう振る舞いを監督は全部見ていたんでしょうね。2学期の最初、私はマネージャーになれと言われました。きっと人として成長してもらいたいと思ったからでしょう。でも、悔しくて陸上部をやめました」
人生初めての挫折。実家に戻り、元の食生活に戻ると半年後に貧血は改善。監督から「戻ってこい」と誘われる。
〈高く飛ぶためには、一度深くかがむ必要がある〉
屈辱や後退は次なる飛躍のチャンスという言葉だが、増田にとってまさにその時期だった。
猛練習に次ぐ猛練習。すると3年生のときに3000m、5000m、1万mの記録を塗り替え、'82年には初のフルマラソンで日本最高記録を樹立。20kmマラソンでは世界最高記録をマークした。飛ぶ鳥を落とす勢いの新星につけられた別名が「女・瀬古」。当時、男子のトップランナー・瀬古選手になぞらえた。
それから間もなくである。2年後のロサンゼルス五輪で女子マラソンが正式種目に決まったのは。当然、日本最高記録を持つ増田が最有力候補に浮上する。