背負わされた“日の丸”の重さに─
「小学校の先生になるのが夢だったので大学進学も考えていたのですが、環境を変えないで滝田監督のもとで走ることにしました」
滝田が川崎製鉄千葉の陸上部監督も兼務することになり増田も入社。ただ、そこからが茨の道だった。
'82年の入部当初から身体の状態は万全ではなかった。高校時代から体重が増えないよう食事制限をしていたので、3か月以上生理が止まる無月経が断続的に起きた。
「その影響で肌にいつも吹き出ものができていて、唯一の楽しみが、鏡に向かってかさぶたをはがすことでした」
'83年の大阪女子マラソンでは途中棄権。栄養失調だった。その後環境を変えて、宗茂・猛兄弟のもとでトレーニングを積む。がんがん食べて楽しく走るという姿勢に影響され、考え方も変わった。
栄養状態も改善し、翌'84年の大阪国際女子マラソンで見事、五輪の切符を手にする。
喜びもつかの間。その先には崖が待っていた。間違ったトレーニングと周囲のプレッシャーである。
酷暑のロサンゼルスに対応するため、わざわざ暑い場所を選んで合宿したのだ。
「スポーツ医学が発達した今ではありえない練習法ですが、当時はそんな状態でした。みんな疲れちゃって、別の暑いところで合宿していた瀬古さんは、血尿が止まらなかったみたい。私も顔に悲愴感が出てしまって」
五輪本番に向けた練習の後半、増田は宮古島の市営グラウンドで5000mを走った。するとラスト100mで地元の高校生に抜かれてしまったのだ。
あってはならない結果にプライドを打ち砕かれ、不安に押しつぶされそうになる。
そのころ、壮行会が何度も行われた。そのたびに「日の丸に恥じないように頑張って」と言われた。
「だいたい年配の人なんですよ、そういう激励の仕方するのは。“日の丸に恥じない走りなんて無理だ”と思って。戦争に行くような気持ちでしたね。もう応援なんてされたくないという気持ちでした」
地元の千葉で、一番大きな壮行会が予定されている日だった。増田はしかし、会場とは逆に向かうJR横須賀線に乗っていた。壮行会はすっぽかそうと思った。鎌倉で降り、顔を見られないように大きな麦わら帽子を買って、カツ丼と親子丼を平らげた。
自暴自棄になり孤独に
「どうせ私はこの世から消えるのだから」
自暴自棄の心境だった。
孤独だったのだろう。そのころ、合宿中もほとんど話さなかった瀬古に電話をしている。五輪本番の2週間前のことだ。増田は尋ねた。
「調子が悪いんです。どうしたらいいですか」
瀬古は、所属チームが違う自分に、関係者から電話番号を聞き出し連絡してきたことで、増田が抱える切迫感に衝撃を受けた。
「やばい感じ、大丈夫かなって感じだったですよ。でも自分も血尿出しているし、前向きな話をひとつもできなかったですね」(瀬古)
瀬古は増田のことを、「10代後半で一気に伸びた早熟ランナーだ」と言う。たかだか20歳のランナーに日の丸を背負わせるのは酷だった。体調も心の調子も回復することはなかった。
ロサンゼルス五輪では、序盤こそ先頭に立つが、徐々に失速。足が動かなくなり、16km地点で途中棄権した。
帰国した日、成田空港に両親と迎えに行ったのを弟の光利さんは覚えている。出発の日は歓声に包まれていたのに、帰国の日はひっそりとしていた。一緒に行った叔母が見つからないように、増田に帽子をそっとかぶせた。それでも見つけた人がいた。
「非国民!」
嫌な言葉をかけてくるのはまたしても年配の人だった。
以降3か月、増田は陸上部の寮にこもる。人の目が気になり外出できなかったのだ。ひたすら腹筋をした。
「私のマラソンの自己ベストは2時間30分30秒なので、その時間で何回腹筋ができるかを自分に課していました。ノンストップで5660回ぐらいできたかな。それをやることで自分を支えてました」
訪れる人は母親だけ。時折、心配して料理を持ってきていた。荷物の中に入っていたファンレターを読むと、誰も責める人はいなかった。心に届いた言葉を見つけた。
「明るさ求めて暗さ見ず」
陸上部をやめ、自宅に戻った。いったんは弟のすすめもあって、夢だった教師を目指して受験勉強に励み、法政大学社会学部(通年スクーリング)に入学するが、授業の合間にランニングすると、また本格的に走りたくなった。