留学先で知った、走る力の源

記者からの問いかけに、よどみなく話す増田。話し始めると面白いエピソードがあふれてくる(撮影/佐藤靖彦)
記者からの問いかけに、よどみなく話す増田。話し始めると面白いエピソードがあふれてくる(撮影/佐藤靖彦)
【写真】全国大会で4位入賞を果たした中学3年生のときの増田明美が初々しい

 知り合いに相談すると、NECアメリカに所属し、オレゴン大学で学びながら、プロのコーチに走りを指導してもらえる道があるという。素晴らしい条件で、迷わず渡米した。ここで増田は、なぜ走るのかについて、価値観を揺さぶられることになる。所属したランニングクラブには、ロス五輪の金メダリストがいるなど多士済々。コーチはブラジル人のルイーズ・デ・オリベイラ。彼はわずか1週間で、増田の課題を言い当てた。

「アケミを見ると悲しくなるんだよ。だってアケミは24時間よい結果を出したいと思っているだろ。でもね、よい結果というのは、生きていてハッピーだと思えるときに生まれるものさ」

〈勝ちに価値あり〉〈成功したければ口にフタをしろ〉と叩き込まれた増田は、その言葉が最初、理解できなかった。アメリカでの増田は、大学の授業や練習が終わるとカーテンを閉めて休んでしまっていた。でもチームメートを見ると、恋人がいたし、軽い練習の日には地元の小学校に五輪のメダルを見せに行ってスポーツの楽しさを伝えたり、パーティーを楽しんだりしていた。

「チームメートはハッピーな気持ちを走る力にかえていたんです。それまで私は人から評価されたいと思って走っていましたからね」

 ルイーズのひと言に雷に打たれたような衝撃を受けた増田は、チームメートをパーティーに誘った。天ぷらを揚げたり、千葉の郷土料理「花ずし」という巻き寿司を作ったりして楽しんだ。みんなで料理を持ち寄って、アメリカンフットボール観戦を楽しむこともあった。

 2年間のアメリカ滞在を終えて帰国した増田は、再び競技に戻った。駅伝に出てNECチームの一員として参加、8人抜きをするなど調子がよかったのだが、大阪国際女子マラソンに出ると、27km地点で立ち止まってしまう出来事があった。沿道から、

「おまえの時代は終わったんや」

 と言われ、ショックを受けたのだ。しかしその直後、思わぬ出来事に遭遇した。

「市民ランナーの方が6人ほど、私を励ましてくれたんですね。私の肩をポンと叩いたり、スポンジを持ってきてくれたり、手拍子して一緒に走ってくれたり。みんな自己ベストを更新しようとして大会に出ているのに、なかなかできないことです。人って素敵だなって。そういう人になりたいと思いました」

 30位でゴール。そのときの体験がプラスに働いたのか、翌年の東京国際女子マラソンでは日本人トップの総合8位でゴール。新聞には「増田、復活」の文字が躍った。

 だがそれ以降、走る意欲が落ちている自分に気づく。

「足が痛くて走れないことも理由だったと思うんですが、駅伝でタスキをもらっても、それまでのような“追い抜こう”というファイトが湧いてこなかったんです。これはもう潮時だろうと引退を決めました」

 アスリートとしての“死に場所”、つまり引退の場として選んだのは、五輪出場を決めた大阪国際女子マラソン。1年かけて準備をしたが、肝心のレースで足に痛みが出てしまう。15km地点で制限時間を超えて途中棄権に─。

 検査の結果、疲労骨折と判明。さらにMRIで調べたところ、7か所に骨折所見が認められた。10代の減量がたたって骨をもろくしたのだ。

 4か月後、その情報がどこから漏れたのか、朝日新聞に骨折の記事が載った。

「粉骨練習 増田明美さん 骨のもろさ、65歳並み」

 掲載されたのはスポーツ面ではなく社会面。アスリートの練習方法、栄養面が社会問題になり始めた時期だった。増田は図らずも身をもって問題提起する形になった。