永さんとの出会いが増田流解説の原点

「『カゼヲキル』はドラマや映画化できると思ったのに」と笑いながら話す。これからもさまざまなフィールドで挑戦を続けていく彼女から目を離せない(撮影/佐藤靖彦)
「『カゼヲキル』はドラマや映画化できると思ったのに」と笑いながら話す。これからもさまざまなフィールドで挑戦を続けていく彼女から目を離せない(撮影/佐藤靖彦)
【写真】全国大会で4位入賞を果たした中学3年生のときの増田明美が初々しい

 '92年に引退した増田は、スポーツライターの道に進む。

「オリンピックで途中リタイアし、最後のレースでも棄権しているでしょ。自分がマラソンランナーであったことに誇りを持てないわけです。だから、元マラソンランナーという肩書に頼らなくても生きていける土台を身につけたいという気持ちがありましたね」

 多くの元アスリートは指導者を目指すが、増田は自分の性格には向かないと思った。ではランナーの経験を生かす仕事は─と考えたとき、スポーツライターが思い浮かんだのだ。

「文章を書くのは子どものころから得意だったので、不安はなかったです」

 メディアの知り合いをたどって書く場所を探した。すると引退2か月後に共同通信社の『スポーツ随想』という連載が始まり、同じ年の10月にはラジオのパーソナリティーの仕事が舞い込む。

 そのころ、勉強のためにラジオを浴びるように聴く中で、すごいと思ったのが、『土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ)で話す永六輔さんだった。

「ラジオなのに匂いが感じられるんです。それに感動してお会いしたのが最初でした」

 永さんはこう言った。

「僕はね、会いたいと思う人がいたらすぐに会いに行っちゃうんです。お会いして五感で得たことを、マイクの前で話してるだけ。取材って、“材を取る”って書くでしょ」

 以来、永さんの言葉は増田の“憲法”のようになっていく。もっといえば、増田流解説の原点である。

 ラジオ放送を聴いたテレビ局の人からドイツで開幕する世界陸上のマラソン解説を依頼される。増田は会いたい人に取材する手間を惜しまなかった。

 期待された浅利純子選手を取材するため大阪のダイハツに通った。彼女は走って血液検査をし、乳酸値を測り、走り方を科学的に分析し、メンタルトレーニングも行っていた。出場する松野明美選手や安部友恵選手にも話を聞いた。

「当時の解説はレースの展開を予測したり走り方を解説したりするのが主流でした。でも私はレース前にどんな練習をし、どんな思いで走っているのかを選手自身に聞いて話したいと思いました」

 レースでは重点取材した浅利選手が優勝したため、取材した情報を十分に生かすことができた。

「映画監督の大島渚さんが、テレビで褒めてくださり、永さんも、“増田さんの解説に金メダル”と言ってくださって、うれしかったですね」

 さらに2013年の『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日系)の人気コーナー『新・3大○○調査会』で増田の解説が取り上げられた。

「長く解説をやらせていただいたので、そろそろ引退して、次のフィールドに行かなきゃと思っていたのですが、マツコさんが面白いと言ってくださって、引き続きやらせていただきたいと思いました」

 増田はどこにでもノートを持ち歩く。パーティーなどのレセプション会場でも片手にノートを持っている。

 毎年暮れに行われる『富士山女子駅伝』で、長らく増田とタッグを組んだフジテレビの森昭一郎アナウンサー(53)によると、大会が始まった2004年ごろは筆ペンで大きな文字でメモされたノートを見ながら解説していたという。ところがあるときからワープロで清書されたデータを持ち込むようになった。

 秘書であり夫でもある木脇祐二さん(59)が協力していたのだ。瀬古も、解説席に座る増田に木脇さんが新しい情報を書いたメモを渡しているのを見たことがあるという。実はあの細かすぎる解説は夫婦二人三脚の成果でもあったのだ。今年のパリ五輪でも、木脇さんの協力があった。特に海外選手は、木脇さんが海外メディアをネットなどで調べて、裏づけを取りつつ蓄積していった。