デーモン閣下とチェッカーズ

「俺が脱退した『スーパースランプ』には、デーモン閣下がボーカルで加入しました。

 チェッカーズともヤマハの別大会で出会って、同じ宿舎で食事したことも。藤井フミヤくんのカッコよさは当時から群を抜いていました」

2024年にデビュー40年を迎えた『爆風スランプ』のサンプラザ中野くん
2024年にデビュー40年を迎えた『爆風スランプ』のサンプラザ中野くん
【写真】名曲『Runner』を書き終えた後の爆風スランプ

 デビュー後、同じソニー系列のレコード会社に所属する『聖飢魔II』『米米CLUB』とともに“ソニー3大イロモノバンド”と呼ばれた。

「ライブハウスでは希望したお客さんを逆さづりにしたけど、テレビじゃ無理というので、自分が逆さづりになったこともありました。

 アルフィー用のセットを壊したときは、やりすぎちゃったと思ったけど、しばらくたって高見沢さんにお会いしたときに謝ったら“面白かったよ”と言ってくれました」

1984年発売のファーストアルバムに収録した1曲が注目される。

「ほーじんが“笑いのセンスがわからない”と言うので、いろいろ教えたら『無理だ!!』という曲を作ってきた。これはロングバージョンも作ろうと思って、みんなで完成させたらソニーが気に入ってくれて、テレビ出演が増えました。本当は、その前に出したCMタイアップ曲が売れると思ったんですけどね」

 1985年に初めて、武道館公演を行った。

「1984年12月に初めてのホール公演を成功させた打ち上げで、翌年の武道館公演が発表されました。

 ただ、武道館を満席にできず、空席が出たときの言い訳のために『大きな玉ねぎの下で』という曲を書いておきました」

 歌詞は、武道館ライブへ一緒に行く約束をしたペンフレンドが、結局は来なかったというドラマ仕立てにした。

「ライブでバラード曲が欲しいと話していたこともあり、いい曲ができたと思っていたのですが“どうして彼女は来なかったの?”という手紙がいっぱい届いちゃって」

 1998年にデビューした女性アイドルデュオ『YURIMARI』を中野くんと河合がプロデュースした際に『初恋』という曲で女性側の“アンサーソング”を書いた。

「それでようやく“彼女は武道館に遅れて来ていたのですね、よかった”という声をたくさんいただきました」

脱退するメンバーを見て『Runner』を書いた

 爆風スランプのもう1つの代表曲、1988年リリースの『Runner』は、応援歌ではなかった。

「イロモノバンドの印象が強まって、末吉とほーじんが方向転換のために事務所の移籍を考えて実行したのですが、音楽プロデューサーと対立。移籍を先導した、ほーじん自身がバンドを脱退することになり、去っていく彼を見て『Runner』を書きました。それがテレビ番組で使用されてから応援歌として定着して……。奇妙な感じです」

 応援歌として書いたのは、1996年に発売された『進め!電波少年』で猿岩石によるユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画の挿入歌『旅人よ』だという。

 その後もヒット曲を連発しながらも、1999年に活動休止。

「当時は毎年のようにアルバムを発売してツアーという、言うなれば“消耗品”状態でした。新しいベースにバーベQ和佐田が加入したけど、末吉が日本の音楽業界に嫌気が差して中国に拠点を移したので、バンドは休止することに」