11月17日放送の大河ドラマ『光る君へ』(NHK)で、藤原道長(柄本佑)の最も有名な和歌『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』が披露された。翌週の回では道長と近しい貴族たちが「今宵はまことによい夜であるなぁ、くらいの軽い気持ちではないのか」「月は后を表しますゆえ、3人の后は望月のように欠けていない、よい夜だ、ということだと思いました」と新解釈。
しかし、記者は「この世は自分のものであると思う。満月が欠けていないように、すべてが満足にそろっている」という栄華を誇った歌だと学校で教わったが……。『源氏物語』などを研究する津田塾大学教授の木村朗子さんに、この歌の解釈を聞いてみた。
「よ」の解釈
「この歌は藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』に記されていて『この世』になっているため、学校で習うような解釈が広く知られていますが、実際には道長本人にしかわかりません。『よ』は『夜』かもしれませんし、宴に実資ら公卿がそろっていたことを『望月』に例えたのかもしれません」
もともと道長は3人の娘を次々に入内させ、後一条天皇の摂政となり、栄華を極めた権力大好きおじさんのイメージ。『光る君へ』では権力欲のない人物に描かれているが、平安文学からはどのような男性だと読み取れるのか。
「道長は三男だったので、兄たちが次々に亡くなり、思いがけず当主の座が回ってきた感じだと思います。娘3人を入内させたのは確かに権力を高めたい思いもあったかと。摂政になったら天下を取ったようなイメージですが、道長は摂政の位につくことを過去に断っていて、息子の頼通(渡邊圭祐)にすぐ摂政の座を譲っています。ただ、道長は政治の根幹である天皇の命令書を誰よりも先に見る『内覧』という権限をずっと握っていました。道長は王様になりたいというよりは政治の実務をしたいという政治家だったと思います」(木村さん、以下同)