トルコと日本、外交の始まり
そもそも、トルコと日本の外交の始まりはいつだったのか。海外の王室に詳しいジャーナリストの多賀幹子さんは次のように解説する。
「明治時代の1890年、現在の和歌山県の串本町あたりの沖で『エルトゥールル号』というトルコ船が難破しました。500人以上が亡くなり、生き残ったのは69人。そのとき、和歌山県の地元住民が自分たちの食料の一部を支給するなど、親身になってトルコ人を助けたそうです。
その後、生存者を病院に連れていくことになり、明治天皇が侍医を遣わし、昭憲皇太后は看護師を遣わすなど、手厚く対応したそうです。この『エルトゥールル号事件』が日本とトルコの外交の原点になりました」
その後、両国は何度もお互いを助け合ったという。
「1980年に始まったイラン・イラク戦争で、現地にいた日本人が危険にさらされたのですが、トルコ航空がフライトを決行し、200人以上の日本人を救出。『エルトゥールル号事件』のこともあり、この出来事は“海の恩を空で返した”と語られています。その後も、'11年の東日本大震災のときは、世界中から救助チームが派遣されましたが、トルコの救助チームの活動期間は最長で、約3週間も日本で救助活動に努めてくれました」(多賀さん)
そんな関係の深いトルコとの外交100周年に際するご訪問にもかかわらず、なぜ両陛下ではなく、秋篠宮ご夫妻が招待されたのだろうか。その理由について、ある宮内庁関係者がこう分析する。
「両陛下は6月に英国を訪問されましたし、秋の公務ラッシュで地方公務が続き、雅子さまは大変お疲れになったようです。なにより、雅子さまは12月9日に61歳のお誕生日を迎えられました。お誕生日には毎年、“ご感想”を文書でしたためられます。毎回長文を作成されるため、締め切りのぎりぎりまで熟考されるので、負担も大きいのです。今も変わらず、適応障害の療養中ですし、雅子さまのご体調を慮り、秋篠宮ご夫妻に白羽の矢が立ったのではないでしょうか」
別の理由も考えられるという。
「陛下が公式で外国を訪問する場合、国賓待遇になります。国賓となると、両陛下がイギリスを訪れたときのように、晩さん会や会見が開かれるなど、金銭的にも人員的にも両国の負担が大きくなります。そうした裏の事情もあるかもしれません」(同・宮内庁関係者)