心中寸前の心を救った夫と
その日から、ハサミを握る気力も、生きる気力も失ってしまう。シツイさんは娘の充子さんにこう言った。
「大きくしてあげられなくてごめんなさい。お母ちゃんとお父ちゃんとこに行こう」
心中を図ろうと考えたのだ。ネズミを殺す「猫いらず」という毒を飲み、3人で死のうと。幼い充子さんは「お母ちゃんと一緒ならいいよ」と言ったが、英政さんはイヤだと言って家を飛び出し、近所の親戚宅まで助けを呼びに行った。心中は未遂に終わった。
「あのころの母は何を言っても反応がなかったですね。その後もずっと雨戸を閉めたままでね。暗い部屋の中にぽつんといるんですよ。また猫いらずを姉と2人で飲んじゃうんじゃないかと毎日、気が気じゃなかったです」
未遂から1週間後、英政さんが学校から帰ると、雨戸が開け放たれ、部屋の中に光が差し込んでいた。シツイさんは明るい表情で言った。
「お母ちゃん、お店出すよ」
そしてこう続ける。
「お父ちゃんの言葉を思い出したんだ。兵隊に行くとき、かなりお金を残してくれたんだ。そのお金は全部使ってもいいから子どもたちだけは頼むと。心中するのは、お父さんとの約束を破ることだ。だからお店出して、頑張るよ」
'53年8月、新しい場所で『理容ハコイシ』を開店。店には5年前に取り直した理容師免許証が掲げられた。この免許証にはシツイさんの技術の高さを物語るエピソードがある。英政さんが明かす。
「母の実技を見た試験監督が、絶賛したんです。『この人の右に出る者なし』と。そのあと試験監督自らカットモデルになり、母がカットするところをその日の受験者に見学させたそうですよ」