商売上手! お小遣い作戦で繁盛

東京の理容室を転々とし、修業した当時のシツイさん(左)
東京の理容室を転々とし、修業した当時のシツイさん(左)
【写真】背筋をしっかり伸ばし、髪をカットする108歳のシツイさん

 シツイさんは技術力にあぐらをかかず、地域の人が店に来やすいよう営業した。

 田植えの時季には朝6時から店を開け、夜は仕事終わりの人でいっぱいになるため、夜10時ごろまで営業した。

「理容師組合の規則では、営業は朝8時から夜8時までと決まっていたんですが、お客さんの都合に合わせようとすると、仕方なかったんです。大みそかなどは元日の朝まで仕事していましたよ」

 シツイさんは機転の利いたサービスでも客を喜ばせた。「“お駄賃”を子どもにあげたんですよ。散髪代が500円としたら1割の50円をお小遣いとしてね。駄菓子で自分の好きなものを買えるでしょ。大人にもあげましたよ、お駄賃。いくつになってもお駄賃はうれしいものですよ」

 いわゆる「キャッシュバック」だ。シツイさんは、人は何をされたら喜ぶかをいつも考え抜いていた。

 その結果、客が絶えない人気店になったが、忙しくて家事や食事の時間は十分に取れない状態だった。それを支えたのが長男の英政さんだ。

 料理は肉じゃがなどの煮物や、焼き魚などを作った。母親に教わったわけではなく、親戚の家に行ったときに味見をさせてもらい舌で覚えた。

「昼ごはんは、ヒゲそりの前の蒸しタオルをかけている時間に、ササッと食べてましたね。英政が店の窓をトントントンと叩いて『昼ごはんできたよ』と合図してくれて。うどんとかすぐに食べられるものが多かったです」

 大変だったのは水くみ。戦後長く、水道が完備されなかったので、50メートルほど離れた場所に湧き水をくみに行き、バケツで18往復ぐらいした。家の前にある小学校で英政さんが野球をしている最中でも、シツイさんが「英ちゃーん、水お願い」と頼み、泣く泣く練習を中断することもよくあった。

悪事は成敗! 厳しすぎる子育て

50代のころ。ごはんを食べる時間も惜しんで働き詰めだった母の姿を子どもたちはよく記憶している
50代のころ。ごはんを食べる時間も惜しんで働き詰めだった母の姿を子どもたちはよく記憶している

 それだけを聞けば、親の仕事を手伝う立派な息子、ということになるが、いたずら盛りの幼いころはしつけに手を焼いた。

 例えば4歳のときの“どぶろく事件”。どぶろくという自家製のお酒が入った瓶を勝手に開けて飲み、酔っ払ったところを近所の女性に保護され、背負われて帰宅。激怒したシツイさんは、息子を氷の張った池にドボン! その上、尻を何発も叩いた。

 “借金事件”もあった。英政さんが母親からお使いを頼まれ、そのおつりで勝手に買い物をし、バレるのがマズいと思って親戚から50円借りたのだ。返してくれないことを親戚がシツイさんに伝えると、怒りが爆発。高い橋の上に連れていき、30センチは積もる雪の上で正座をさせた。

「そんな悪い子は、この橋から飛び降りて死んでしまいなさい。世間に迷惑をかける人になっては困るから。1人が怖いのなら、お母ちゃんも一緒に飛び降りてあげる」

 英政さんは何度も「もうしません」と謝るが、なかなか許してくれなかった。縄でぐるぐる巻きにされることもたびたび。厳しいしつけの裏にはシツイさんの信念があった。

「父親がいない家だから、子どもがあんなふうになるんだと言われないように、厳しく育てようと思っていたんです」

 シツイさんには息子に理容店を継いでほしいという願いがあった。だが、息子は「ごはんもゆっくり食べられない床屋はイヤ。早稲田大学を受けさせてほしい。ダメなら床屋になる」と言った。

「英ちゃんがいなかったら、店は続けられなかった。だから大学に行きたいなら、お金を出してあげようと、それまで以上に働きました」

 英政さんは猛勉強の末に早稲田大学に合格。テレビ局などで働き、80代でリタイア後も、健康茶の製造・販売で独立起業するなど、ひるまず、人生の挑戦をしてきた。