母と娘の衝突、障害と自立
一方、長女の充子さんへの子育てはどうだったのだろう。
充子さんが1人暮らしをする市営住宅を訪ねた。玄関を入ると、自身で編んだというワインカラーのセーターを着た充子さんが車椅子で迎えてくれる。
「いらっしゃい」
傍らには24時間交代制で身の回りのサポートをしてくれるヘルパーがついている。
シツイさんによると、充子さんの子育ては試行錯誤の連続だった。障害のある充子さんの通学を学校が認めなかったため、家で勉強させながら、ひとつでも「できること」を増やそうと努めていたという。
幼少期の母との思い出を充子さんはよく記憶している。
「母は私が起きる時間には仕事をしていて、一日中立ちっぱなし。夜に『リア王』『小公女』『ピノキオ』などの絵本を読み聞かせてくれました。毎晩、川の字になって、真ん中にお母さん。でもお母さん、疲れているから、途中で寝てしまって、何度読んでも、絶対に最後までいかないんですよ。おかげで何とかして続きが知りたいから、必死で文字を覚えたんです」
充子さんがケラケラ笑う。
計算の勉強は店に関わる数字が題材だった。
「母は家計簿をつけていて、今日お客さんが何人来て、売り上げがどれぐらいかを足し算するんですが、そのとき私も一緒に計算しました。お母さんが働く姿をそばで見ながら、いろんなことを教わりましたね」
充子さんは千葉の福祉施設へ
20歳のとき充子さんは家を出て、千葉の福祉施設に入所する。シツイさんは猛反対したが、決意は固かった。
「長く障害のことでいじめられたので、自立したかった。そのためには手に職をつけなければいけないでしょ。それで編み物を習おうと思った」
10年間親元を離れ、娘がたくましくなったことにシツイさんは驚かされた。充子さんが家を出ることは冒険のようにも感じるが、シツイさんも若いころは独立心旺盛だった。2人は似ているのだ。
充子さんは30歳で千葉から栃木に戻り、宇都宮の施設で暮らす。そこで脳性まひ者の当事者団体『青い芝の会』と一緒に運動を展開していく。
当時は障害のある人が思うようにバスに乗れなかったので、バスに無理やり乗る活動を行った。また、年金を上げたり、バリアフリートイレを駅の近くに設置するよう求め、県庁で座り込みもした。
「そういう運動に、お母さんは反対でしたね。でも私たちは声を上げなければ気づいてもらえないし、わかってもらえないし、社会は変わっていかないから。例えば、買い物に行くときも派手な服を着て、棚の上の商品が取れないときは、大声で手伝いを求めます」
泣き虫だった充子さんの性格は、活発に変化していく。
48歳のとき、宇都宮市で1人暮らしを始めた際も、宇都宮大学の校門に1人で出向き、身の回りのサポートをしてくれるアルバイトを募集。手作りのチラシに“食事を作ることも、掃除も洗濯もできません”と書いて、学生に配った。人懐っこい性格の充子さんは、どんどん支援者を増やしていく。
「次の講義までの30分の空き時間でもいいし、野菜を切りに来るだけでもいい、と話しかけたりしました。これまで出会ったボランティアは400人以上。私の宝です」
スウェーデンやオーストラリアなど海外をはじめ、日本各地に旅行にも出かけた。
ただ、やり残したこともある。それは結婚だ。母、シツイさんからは、「しないほうがいい。苦労をするから。もし結婚しても子どもはつくらないほうがいい」と言われていた。
「でもね、子どもは誰にでもつくる権利がある。恋をする権利だってある。花だって花を咲かせるのに種をまくでしょ? 反対する母の横顔に『私もひとりの人間。お母さんだって、お父さんとそういうことをしたから、私が生まれたんでしょ』と訴えました」
わが子を傷つけたくない母と自立を望む娘の衝突はたびたび起こった。でも、体調を崩して心細かったとき、母親がケアしてくれたことは忘れない。
「20代のころ、肝臓を悪くして入院したことがあったんです。母は毎月最終の月曜日に宇都宮の病院に来て、水曜日、朝のバスで帰るんだけど、片道2時間半かかるから大変だったと思う。それを8か月続けてくれて心強かったです」