晩年にはトレードマークだった“ねじねじ”を処分し、生前墓を建てるなどの終活を行っていた。そのきっかけも“日課”からだった。
「晩酌をしているときに、どちらともなく、そろそろ身の回りの片づけを始めようという話になったようです。片づけながら、一つひとつにまつわる思い出を語り、楽しく終活をしていたみたいですね」
妻が用意した最後の食事
木更津にあったアトリエも手放した。それでも創作活動は続けていた。
「大きなサイズの絵を描くのは疲れるからと、小さな作品を描いていました。描き始めると止まらず、食事もしないほど。中尾さんは“この世は遊び”と考えていて、《遊びをせんとや生まれけむ》という後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』に出てくる1節を大切にしていました。これは“遊びをしようとして生まれてきたのだろうか”という意味。終活をする中でも自分の好きなことに関わりたい、遊びたいと創作活動を続けたのでしょう」
最後まで“童心”を忘れなかったようだ。
「亡くなる3日前に“クリームソーダが食べたい”と言うと、志乃さんが少し高めのメロンソーダを買ってきて、アイスクリームをのせて手作りのクリームソーダを出したようです。それを中尾さんは子どもみたいに喜んで召し上がったそうで、それが最後の食事だったと聞きました」(前出・スポーツ紙記者)
天国でおいしいお酒と料理に舌鼓を打ちながら、愛する妻を見守っているだろう。