マキ上田
 東京オリンピックが開催された昭和39年。『東洋の魔女』に憧れて、バレーボールに打ち込んでいたマキ上田に、プロレスをすすめたのは父親だった。

「プロレス好きだった父が当時、鳥取で興行していた女子プロレスを見て、すすめてくれたんです。でも、テレビ放映もされてないころだから、私は女子プロレスの存在すら知りませんでした」

 早く地元・鳥取を離れたかったが、一方でバレー選手への憧れを捨てきれなかったマキ上田は、女子プロレスに行く決心はつかなかった。

「まだ15歳でしたし、水着で試合をすることにも抵抗がありました。それで地元の高校に進学しましたが、やっぱりプロレスをやろうと思い、高1のときに上京しました」

 マッハ文朱や赤城マリ子などの人気選手が出てきて、女子プロレスが認知され始めたころだったが、レスラーを目指す女性はまだまだ少なかった。そのためオーディションなどはなく、見込みがあれば無試験で入団が許可された。

 バレーボールで鍛えられた上田は問題もなく入団が許され、翌日からレスラーの卵として厳しい練習が始まった。

「全日本女子プロレスという会社の寮に入りました。月給は10万円。でも練習がキツく、遊びに行く時間もないから、お金は使いませんでしたね。練習生はいつも身体中アザだらけで、それで銭湯に行くから、ほかのお客さんがビックリしちゃうんですよ。そのアザがなくなるのが、上達したという目安でした」

 入団して約1年後の昭和50年3月にプロデビュー。翌年の2月に故・ジャッキー佐藤さんと『ビューティ・ペア』を結成し、全日本女子プロレスの世界タッグ王座を獲得。

 しかし、『ビューティ・ペア』は単なる女子プロレスラーで終わることはなかった。歌手として曲を出すと人気に拍車がかかり、デビュー曲『かけめぐる青春』は80万枚の大ヒットとなった。

「デビューと同時に部屋を借りましたが、年間300試合もあったので、ずっと旅をしていました。休みの日も取材があり、部屋にいることは少なかったです。給料は上がって月給30万円と、芸能手当が10万円。いま考えると少ないですね(笑い)。あのころは会社が苦しいと聞いていたから、仕方ないかなって」

 その後も出す曲が次々とヒットして試合会場はいつも満員に。会社の社長は田園調布に家を建てたという。

 ペア結成から4年がたった’79 年2月27日、ふたりは世界シングル王座をかけて戦うことに。この試合は“敗者引退”という過酷なルールで行われることになった。そのため、ふたりの不仲説が流れたのだが、

「今だから言いますが、実はジャッキーに好きな人ができて、仕事に支障をきたすようになったんです。仕事にプライベートを持ち込んでほしくなかったし、ジャッキーが恋愛で乱れるなんて許せなかったんです。それでつい〝私が辞めるから好きにしな〟と言っちゃいました」

 彼女が引退を決めた理由はそれだけではなかった。

「母親を亡くしたことも大きな理由です。母は大病を患っていたんですが、死に目にも会えませんでした。後輩が練習中に亡くなるという事故も起き、将来に不安を覚えましたね。ひとつ間違えたら下半身不随にもなるし、女性が長くやる仕事じゃないなって」

 実際、彼女も試合中に大きなケガをしている。

「首の付け根からマットに落ちて、病院に運ばれました。しかし当時はケガをしても試合を休むことは許されず、注射で痛みを抑え、翌日からリングに立ちました。結局、将来を考え引退を決めました」

 彼女は現在、結婚して、東京・浅草で釜飯店の女将として店を切り盛りしている。

「月に1、2度ほどジャガー横田やライオネス飛鳥と会っています。現役でやっているジャガーの話を聞くと血が騒ぎますね。やっぱり、プロレスが好きなんでしょうね」