聖子が親を説き伏せてから1年半後の'79年夏ごろ、地元・久留米市から上京した聖子の歌をCBS・ソニー信濃町スタジオで生で聴いた稲垣さんは衝撃を受けた。

類いまれなる音質とリズム感がありました。特に中高音の響きが良く、音圧を示すVU計(音量感を測定する測定器)の針がビーンと触れたんです。しかもその声は若干ハスキーで可愛らしい。必ず売れる!と手ごたえを感じたものです」(稲垣さん、以下同)

引き受けたいというプロダクションになかなか巡り合えなかった

 もともと聖子と同郷の作曲家の故・平尾昌晃氏が主催するミュージックスクールに通うほど聖子はプロ意識が強かった。母親の後押しもあってようやくデビューへと向かったが、所属プロダクションがなかなか決まらず、難航したという。

「当時の聖子は地方出身の田舎くささがあり、まだあか抜けていなかったんです」

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 最初から輝いているアイドルもいるが、一方で徐々に磨かれ、洗練されていくアイドルもいる。聖子は後者だった。だが当時は聖子を引き受けたいというプロダクションになかなか巡り合えず、稲垣さんらCBS・ソニー側が、わらにもすがる思いでプレゼンしたのがサンミュージックだった。

「森田健作や桜田淳子都はるみらが所属する大手ですが、幹部らが乗り気ではなかった。ところがサンミュージック出版の杉村昌子さんが聖子の声を気に入り、社内の説得を試みてくれたおかげでやっと決まったんです」

 杉村さんは香坂みゆきや岡田有希子さんらのアルバムでも制作総指揮を務めるなど有能なプロデューサーで、聖子デビューの立役者だった。

 '80年、聖子は『裸足の季節』でデビューし、2作目の『青い珊瑚礁』で爆発的なヒットを飛ばした。デビューからわずか半年後に聖子の歌声が日本中に広まり、「聖子ちゃんカット」も浸透して名実共にアイドルスターになったのだ。

 デビュー前から持っていたプロ志向と意志の強さ、そして信念は恋や結婚にも大きな影響を与えた。

「歌手を目指した理由が郷ひろみのファンだったからというのは有名な話です。郷と恋愛関係になり結婚秒読みとまでになったのも、聖子の“恋も叶える”という意志の強さを表していますね。ところが結婚したら家庭に入ってほしいという郷に、聖子は“ノー”という答えを出した。最愛の男より歌い続ける人生を選んだのです。これも強い意志の表れですよ」