『白い朝』から『異邦人』へ
そんなある日、中央線で自宅へ帰る途中、車窓からの夕景に心が動かされた。
「『ドラえもん』に出てくる土管があるような空き地が、まだたくさんあった時代。そこで子どもたちが楽しそうに遊んでいて、夕焼けも美しくて。そこから生まれた『白い朝』というタイトルの曲が、その後、『異邦人』になったんです」
提出した当初は、“イマイチかな”と自己採点。将来のことを思い悩み、短大2年の夏休みをもどかしく過ごしていた。
ところがCBSソニーではCMのタイアップソングとして、この曲に白羽の矢が立っていた。商品は三洋電機の大型カラーテレビ。シルクロードブームを予見して、撮影は中東を予定。原曲はフォークソングテイストだったが、手直しをすればエキゾチックな映像にハマりそう、と評価されたのだ。
話を聞いたときの驚きを「まさに青天の霹靂でした」と久米さんは形容する。
「キャリアを積んできた方なら“やった!”となるんでしょうけど、まったくの素人だったのでピンとこなくて。“え、あの曲ですか?”とポカンとしてました(笑)」
当初は、誰が歌うかは決まっていなかった。自分の曲は自分で歌いたいと思いそうだが。
「いえ、全然。曲を使っていただけるだけでありがたいし、普通は自分の曲をプロの方に歌っていただけるなんて、あり得ないこと。それが実現するなら、こんなうれしいことはないと思ってたんです」
ところが最終的に、本人が歌うことになる。久米さんにとっては“マジ!?”という心境で、「歌入れは一晩に100回直されて、“『異邦人』テイク100”と有名になりました」と苦笑いしながら明かしてくれた。
'79年3月に短大を卒業し、10月にデビュー。芸名の久保田早紀は、21世紀を先取りするという意味で、自身で選んだ。大型CMタイアップ曲でのデビューだっただけに、さぞや華々しいスタートだったのではと思いきや、「最初は誰もヒットするとは思ってなかったんです」と意外な舞台裏が。
「CMソングだから少しは引っかかるかな、くらいでした。それが、レコード店からの注文がだんだん増えていき、万単位になって初めて“うわ、じゃあこの子をテレビに出さなきゃ”みたいな感じだったんじゃないかな。大誤算ってみんな言ってましたから(笑)」
だが、ここで浮き足立たないのが久米さんだ。芸能界に入りたくてたまらなかったわけではなく、もともとの性格も裏方気質。中3の文化祭も男子メンバーの脇で目立たないから出られた、というタイプなのだ。それだけに、突然の大ヒットで増したのは、うれしさよりも不安。
「すぐ売れちゃったからどう言われるか心配でしたし、私が好きなニューミュージックなどの世界では苦節何年とか、長くやってきたからこそのカッコよさがあって。こんなのはダメだと感じてました」