喫煙騒動が一段落し、旅館は日常を取り戻したが、遠藤さんは先行きに対する不安を感じるようになっていた。
コロナ蔓延の前から国内旅行者は減り、交通の便がよくないこともあってインバウンド需要とはあまり縁がなかった。
クラファンは1週間で目標額を達成
地元の小学校が閉校し、複数の商店が閉店、同業者も次々と苦境に立たされ、地域が寂れるスピードは加速するばかりだった。西屋ははたして自助努力だけで維持できるのか。
「つてを辿ってある人に、西屋を立て直す手立てを相談していたんです。でも非常に厳しい状況だと言われまして、そこに追い打ちをかけるように、一昨年夏に、私が乳がんを患ったんです。そこで気持ちがぽっきり折れてしまって。私、もうダメかもって。秋から暮れにかけては、事業譲渡をするしかないのかという状況になっていました」
そんなとき遠藤さんは不思議な体験をする。ふと茅葺の母屋に目をやったとき、寒さに耐え、雪の重さを引き受け、灯火をたたえる母屋の優しげな姿に胸を締めつけられ、はっと目が覚めたのだ。
「もしもここで、全部諦めて西屋を手放したら、一生後悔するだろうなと。なくしたらもう二度と再建できない大切な建物を自分たちは守っているのだ。母屋も耐えているのに私が諦めたら終わりだと。この山奥に住んでいるのは何かの使命。この旅館は手放してはいけないと思いました」
西屋を立て直す切り札にしたのは、旅館のシンボルでもある茅葺屋根の改修である。ただ、多額の資金が必要になるがどうするか。考えあぐねた結果、浮かんだのがクラウドファンディングだった。
奈良の法隆寺を観光したとき、クラファンをしていたのを思い出したのだ。身近にいたクラファン経験者に相談し、一か八かトライしてみた。クラファンのホームページにはこう思いを綴った。
《日本人の心に普遍的な懐かしさを呼び起こす古き良き佇まいを、何とか未来に残していきたい。近代化が加速する中、茅葺建築の維持がどんどん難しくなりつつある現状を一人でも多くの方に知って頂きたい》
目標は400万円。正直、1か月で100%に届けば御の字と思っていた。ところがフタをあけたら、なんと1週間もたたない間に100%を達成! 最終的に750万円に達した。
支援は全国から届き、返礼に用意していた茅葺屋根の葺き替え体験には小学生や都内在住者からも参加申し込みがあった。
「こういう古い建物は、時代に取り残されて消えていく運命にあるんだと落ち込んでいましたが、いや、そんなことはないのだと、皆さんに気づかせていただいた。感謝の気持ちでいっぱいです」
遠藤さんによれば、木造の館内に立つ立派な木の柱は飴色に光り、それがなんとも優しい風情を醸し出すという。風呂も300年前につくられた石風呂をそのまま使っている。洗い場も狭く滑りやすいが、この建物からは長い年月の中で積み重ねられた味わい、ロマン、風情がにじみ出ている。
これはお金をいくら積んでも手にできないものだ。
「その価値を理解して、醍醐味として味わっていただけることが、クラファンを通じて実感できました。西屋は古いままでいいんだと。これまでマイナスだと思っていたことをプラスに考えられるようになって、私も立ち直るきっかけをいただきました」
かつてはなじみの喫煙客も多かった。喫煙所をなくし、〈全館禁煙〉にすれば、客数が減ることも容易に想像できた。それでも火災に弱い歴史的建造物を守るため、宿泊客に規則への理解を求めてきた。
老舗旅館の一女将が見せた違反客と闘う姿勢─その背景には、老舗旅館を守る者の覚悟と責任があった。
そして、騒動を経たいま、「応援する客」と「旅館」という、存続を願う同志のような新しい関係性が築かれつつある。
茅葺屋根の改修工事は今年6月末から始まる予定だ。命を吹き返した母屋によって紡がれる物語を、遠藤さんはこれからも発信していく。
取材・文/西所正道