目次
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ー 天皇陛下が述べられたお言葉
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ー 佳子さまのお気持ち

「本日、阪神・淡路大震災から30年という節目を迎えるに当たり、亡くなられた6400余名の方々に、改めて深く哀悼の意を表します。

(略)阪神・淡路大震災以降も、国の内外を問わず、各地で大きな自然災害が頻発しています。昨年1月に発生した能登半島地震の際にも、兵庫県の皆さんが、現地に駆けつけ、被災者に寄り添いながら、震災から得た経験と教訓を生かした支援を行ってきたほか、海外で起こった災害の被災者に対しても心を寄せ、支援を行っていることは、意義深いことと思います。

 阪神・淡路大震災から30年を経て、震災を経験していない世代の人々が増えています。兵庫県では、震災を風化させてはならないという決意のもと、世代や地域を越えて経験と教訓を『繋ぐ』取組を進めており、中でも、震災を経験していない若い人たちが震災について自主的に学び、考え、自分の言葉で発信し、次世代へ繋いでいこうとする活動に取り組んでいると聞き、心強く思います。

 これからも、震災の経験と教訓を基に、皆が助け合いながら、安全で安心して暮らせる地域づくりが進められるとともに、そこで得られた知見が国の内外に広がり、次の世代へと引き継がれていくことを期待いたします」

天皇陛下が述べられたお言葉

「1.17のつどい-阪神・淡路大震災30年追悼式典」に出席された天皇、皇后両陛下(2025年1月17日)
「1.17のつどい-阪神・淡路大震災30年追悼式典」に出席された天皇、皇后両陛下(2025年1月17日)

 6434人が亡くなった1995年の阪神・淡路大震災は1月17日、発生から30年を迎えた。天皇、皇后両陛下はこの日、神戸市中央区の兵庫県公館で行われた「1・17のつどい―阪神・淡路大震災30年追悼式典」に参列し、黙とうをささげた後、天皇陛下は前述したように述べた。このあと天皇陛下は、皇后さまとともに、祭壇の前に花束を供えて拝礼し、犠牲者の霊を慰めた。追悼式典の後、両陛下は神戸市の防災学習施設「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」を訪問。地元の小学生たちが防災や災害のメカニズムを学ぶ様子などを見学し、子どもたちと懇談した。

 秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまは今、30歳。阪神・淡路大震災が起こる、わずか19日前に生まれている。佳子さまの30年の歩みは、阪神・淡路大震災の深い悲しみの記憶や復興へ向けた力強い軌跡と重なり合う。

 2人目を妊娠した紀子さまに'94年12月28日午前の定期健診で弱い陣痛が確認され、この日の午後、皇居内の宮内庁病院に入院した。そして、翌29日午前9時20分、佳子さまを出産した。身長50・5センチ、体重は2766グラムだった。同日夕方、秋篠宮さまと姉の眞子さん、上皇ご夫妻と黒田清子さん(当時は紀宮さま)、それに天皇、皇后両陛下(当時は皇太子ご夫妻)が相次いで紀子さまを見舞った。

 そして、年が改まった'95年1月4日、一般のお七夜にあたるこの日、紀子さまが入院する宮内庁病院で「命名の儀」が行われ、名前は「佳子」に決まった。「佳」には「美しい」や「すぐれている」などの意味がある。健康で素直で思いやりがあり、心身ともに「佳い子」に育ってほしいとの親の願いが込められた。身の回りの品につける「お印」は「ゆうな」に決定した。「ゆうな」はハイビスカスの一種「オオハマボウ」の沖縄地方の呼称である。暖かい地方の海岸近くに生える小高木で、夏に淡く美しい黄色の花をつける。

 1月6日午前、紀子さまに抱かれた佳子さまが宮内庁病院を退院した。「佳子さまのことを何とお呼びされているのですか」との記者からの問いかけに、退院に付き添っていた秋篠宮さまは、「今は『かこちゃん』と呼んでいます」と応じた。「眞子さまと似ていらっしゃいますか」と、さらに尋ねられた父親は、「そんなに似ていないんじゃあないですかね」と話し、記者たちの笑いを誘っていた。

 阪神・淡路大震災が発生したのは、佳子さまが宮内庁病院を退院した11日後のことだった。2004年10月、新潟県中越地震、'11年3月には東日本大震災が起きた。さらに、'16年4月に熊本地震、'18年9月に北海道胆振東部地震が発生するなど、「平成」は大きな地震災害に見舞われた時代でもあった。「令和」となってからも'24年1月、能登半島地震が起きたことは記憶に新しい。

《多くの命と当たり前の暮らしが一瞬で失われた。現代の防災体制の原点となった大地震を忘れてはならない》

 1月18日付、毎日新聞朝刊は社説でこのように主張している。

 さらに、社説は、次のように続けている。《(中略)阪神大震災で被災し、東日本大震災の復興計画を検討する会議のトップを務めた政治学者の五百籏頭眞さんは生前、こう記した。「この列島の住人は『連帯と分かち合い』をもって支え合うより外に、大災害を克服することはできないのだ。共助の手を差し伸べ合う以外にはない」。いつどこで災害が起きてもおかしくない。都市部を中心に伝統的な共同体が失われる中、新たな時代に合わせた共助の形を模索し、命を守る社会を構築したい》