少年時代の棚橋が書いた3つの"夢"とは
棚橋の少年時代は野球一色だった。
「中日ドラゴンズの大ファン。小松辰雄や郭源治といった速球派の投手に憧れていましたね」
棚橋は、中学から高校と野球三昧の日々を送った。ただ、レギュラーの座は獲得したものの、外野手で下位打線を任されることが多かった。それでもめげずに、「いつかエースになる」と公言していたのは、いかにも彼らしい。
「子どものころから、僕の考えって基本的に変わってないんですよ」と棚橋は言う。
「エース志望はレスラーになっても同じ。野球だけじゃなくサッカーにもエースがいますし、エースにはエースとしての責任とやるべき仕事がありますよね。僕はプロレス界のエースと呼ばれたい」
それは、力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木のように、時代をつくった伝説のレスラーたちと並ぶことを意味する。
「僕はいつも夢を掲げて突っ走ります。だって、有言実行のほうが実現したときにカッコいいじゃないですか」
彼は屈託のない笑顔で語った。この衒いのなさ、底抜けの明るさもまた、棚橋の大きな魅力にほかならない。
両親は、いかにも彼らしい思い出の品を見せてくれた。それは、棚橋が中学2年のとき、「でかすぎる夢を語るぜ」と題した版画。バスケ選手を描いたパネルの裏には、棚橋の"夢"がいくつも手描きされていた。
・プロ野球選手になる
・年俸5億円
・歌をうたってCDを出す
「美人の女房をもらう、なんてことも吹いてましたねえ」
父は、やれやれという調子だったが、「特に反抗期もなかったし、素直な子だったのはありがたかったです」と自らとりなす。
母は、「弘至は成績がよかったんですよ。面白い知恵の使い方をする子でした」と太鼓判を押した。
「運動会の棒倒しで、あの子はみんなが棒に殺到するのを待ち、後から悠々と頭や肩を踏み台にして登っていってました」
大垣西高の入試では、トップ合格してみせた。棚橋は迷わず野球部に入る。ここで本格的な筋トレと出あった。
「監督が、超のつくほど筋トレに熱心だったんです。だけど、バーベルはあくまで野球で勝つための手段。それほど野球に打ち込んでいました」
高3の夏は同級生の部員が9人、総勢わずか10人で甲子園に挑んだ。棚橋は言う。
「それでも僕らは代表候補だったんです」
2回戦の相手は大垣日大、棚橋は7番・レフトで先発した。大垣西高は6回表まで7対0でリード、あと1回を抑えればコールドゲームという展開だった。
「ところが6回の裏に追いつかれてしまい、負けちゃったんです」
だが棚橋は、「全力を尽くしたのだから、悔いはない」と断言する。
「むしろ、あの敗戦で野球にケジメがついた。次は団体競技じゃなく、個人競技でエースを目指そうと思いました」
余談ながら、棚橋は控え投手でもあった。サイドスローの変則派で、公式戦2勝0敗の記録を残している。
取材・文/増田晶文 (※本記事は『週刊女性PRIME』用にリライトされているため、必要に応じて加筆修正してあります。少年時代編に続いて、全部で3部の構成になっています。続編も是非、お読みください) 撮影/伊藤和幸