「先輩から預かった大切な芸という荷物を、次の世代に伝えていかなければ」
と、日ごろから公言していた坂東三津五郎さん。亡くなる直前までその姿勢を貫いた。
「中村橋之助さんへ、亡くなる6日前に病床から電話したそうです。三津五郎さんが得意としていた舞台に橋之助さんが出るので、その心得を伝えたかったんだとか。40分にわたって丁寧に稽古したそうです」(スポーツ紙記者)
後輩への面倒見のよさは、ドラマや映画の世界でも変わらなかったという。
「たとえ共演者が若手であっても自分から声をかける人でした。共演シーンがない場合も打ち上げなどで会ったときに“あの演技よかったよ”と話しかけていましたね」(ドラマ制作スタッフ)
‘06 年に公開された映画『武士の一分』の現場では、主人公を演じたあの人にも率先してフォローをしている。
「主人公の木村拓哉さんは時代劇の経験が浅くて、撮影現場で苦労されていたんですね。その姿を見た三津五郎さんは、自分から木村さんに近づいていって、着物姿での歩き方や江戸時代の口調などを教えたんです」(映画製作スタッフ)
木村とはその後も年賀状のやりとりを続けていたという。気が合うと、年の差は関係なく仲よくなる人だった。以前『週刊女性』でも、TBS系ドラマ『うぬぼれ刑事』で共演した長瀬智也、生田斗真、おぎやはぎの矢作、要潤らと放送終了から3年たっても集まって会食していたことを報じた。
つながった縁は大事にする三津五郎さんだったが、家庭では2度の離婚を経験。1度目の離婚は自らの不倫が原因だった。その影響を受けたのは前妻・寿ひづるとの間にもうけた子どもたち。
「特に長男の巳之助さんとは離婚騒動をきっかけに、一時期は断絶状態になるんです。というのも、寿さんに引き取られた巳之助さんは三津五郎さんのもとへ稽古に通っていたのですが、父親への反発心や跡取りという重圧から稽古をサボるようになったんです」(梨園関係者)
そんな巳之助を三津五郎さんは無理やり引き戻そうとはしなかった。それどころか1年間、歌舞伎から離れることをすすめたという。
「最終的に息子が梨園を離れても、元気で生きてくれるだけでいいじゃないかと思っていたそうです。その結果、巳之助さんは自ら歌舞伎の道に戻って、今や玄人筋からの評価もグングン上がっています」(前出・梨園関係者)
不安定な時期を乗り越え関係を結び直したふたり。三津五郎さんは巳之助にとある電話をかけていたという。
「“城”マニアだった三津五郎さんは、巳之助さんが巡業で出かけている先に電話をして“あの城を見ておきなさい”と言っていたんだとか(笑い)」(前出・梨園関係者)