kitanofuji12010

 11月20日、最後まで相撲界を見守って旅立った北の湖親方。彼のように、人々の記憶に残るような力士たちは数多く存在した。そんな国民に愛された力士たちを振り返ろう。

 栃若時代の次に相撲界を席巻したのは、大鵬と柏戸である。2人の四股名から“柏鵬時代”と呼ばれている。

「北の湖と輪島の“輪湖時代”もそうですが、◯◯時代と名がつくのは魅力的なライバル対決があるということ。相撲人気は盛り上がりますよね。横綱の白鵬は、この柏鵬の名にちなんだ命名なんですよ。大鵬は昭和35年に新入幕で11連勝しましたが、小結の柏戸に記録を止められます。それ以来、名勝負が重ねられていきます」(スポーツ紙記者)

 大鵬はロシア人の血を引く甘いマスクで人気となり、子どもが好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれた。柏戸は玄人好みの相撲をとり、イメージは対照的。実力は伯仲しており、昭和36年にそろって横綱に昇進する。

「大鵬は“守りの相撲”でしたね。総合力で勝っていたという印象です」(相撲ジャーナリストの中澤潔氏)

 優勝回数で見ると、柏戸の5回に対して大鵬は32回と圧倒的な差をつけている。しかし、対戦成績は大鵬の21勝16敗で、最晩年の5連勝を除けば16勝16敗の五分だった。

 柏戸は昭和44年に引退して鏡山親方に。大鵬は昭和46年まで横綱を務め、一代年寄の大鵬親方となった。

 次第に大鵬を脅かす存在になっていったのが、玉の海だった。昭和40年の初対決では見事に金星を挙げている。横綱への道を歩む中で、ライバルとなったのは北の富士だった。昭和39年の初対決から、33回の取組を重ねている。

 対戦成績は玉の海の17勝16敗で、よきライバルだったことがわかる。

「昭和45年に、玉の海と北の富士はそろって横綱に昇進。大鵬が引退した後は、まず北の富士が全勝優勝し、次に玉の海が続きます。交互に優勝して、大いに相撲人気が高まりました。 2人で切磋琢磨しながら大横綱への道を歩むものだと思われましたが、そうはなりませんでした。北玉時代とあまり呼ばれていないのは、横綱として対決した時間があまりにも短かったからです……」(前出・スポーツ紙記者)

 昭和46年の夏巡業で東北地方を回っていた玉の海は、盲腸炎にかかって入院。9月場所に間に合わないので手術を回避して投薬治療を行い、12勝3敗の成績を残す。

 しかし、場所後に病状が悪化して緊急入院。手術して一時は回復したものの、心臓血栓で急死してしまう。27歳という若さだった。

「北の富士と玉の海はライバルであるとともに親友でした。亡くなったことを知らされた北の富士は、“むごい……、あまりにもかわいそうだよ……”と、その場で人目もはばからず号泣したといいます」(前出・スポーツ紙記者)