その後、松本山雅の選手たち、マリノス時代のチームメートである中村俊輔や田中隼磨(現・松本山雅)、U─18(18歳以下)日本代表時代からの親友である佐藤由紀彦(FC東京アカデミーコーチ)らサッカー仲間が次々と病院を訪れた。
田中隼磨は2日、3日と連続して、当時の所属先である名古屋と松本を往復し、偉大な先輩の生還を祈り続けたが、4日昼過ぎに悲報を受けた。彼の記憶は、時間を経た現在も鮮明だ。
「午前中の練習後に亡くなったと聞いて、茫然となりました。正剛(楢崎)さん、アレックス(三都主アレサンドロ)、(田中マルクス)闘莉王(ともに前・名古屋)と4人で夕方くらいに名古屋を出て松本に行きましたが、車の中では誰も言葉を発しなかったですね。
病院に着いてユニホーム姿で寝ているマツさんに会わせてもらいましたけど、顔が笑っていて、今にも悪ふざけしそうだった。僕にはいつもそうでしたからね。本当に亡くなったことが信じられない思いでした」
真紀さんは足を運んでくれた彼らに会い、わずか2日間でも弟が生きる時間を持てたことに、心から感謝したという。
「直樹が倒れて搬送されるまで関わってくれた多くの方々や医療関係者のみなさんが、誠意と愛情を持って命のバトンをつないでくださった。だからこそ、弟は2日間という貴重な時間を得られ、そこで自分を支え、応援してくれた大勢の人たちに会うことができたんだと思います。私たち家族も、みんなそろって弟を看取ることができました。
ベッドに横たわる直樹を見てショックや悲しさを感じる一方で、“管につながれて生きることをこの子は望むのだろうか”という葛藤も正直ありました。2人きりになったとき、“本当にありがとね”と声をかけた直後から急に脈が弱まってきて、最後は眠るように息を引き取りました。
遺族にとっては、多くのみなさんが手を尽くしてくれた事実がいちばんの救いになる。そういうものなんだと実感しましたね」
このとき、松本には夏のシンボル・ひまわりの花が咲き乱れていた。そのまぶしいばかりの黄色の光景を真紀さんは決して忘れることはできない。弟の急死から4度の夏が訪れたが、今もひまわりの花を見るたびに胸が締めつけられるという。
(文中敬称略)
取材・文/元川悦子 撮影/高梨俊浩
※「人間ドキュメント・松田真紀さん」は5回に分けて掲載します。第3回「華々しい活躍をする弟を陰から見守って」は関連記事にあります。