3月26日に開業する北海道新幹線。日に日に盛り上がっているけれど、28年前の3月には、昭和を代表する別れが……。そこでそのものに会うべく、いざ、青森へ。

「ラストランのときは80年の航路の歴史をつぶさないよう、とにかく無事に着いてほしいと思いました」

 昭和45年から青函連絡船の乗組員として働き、現在もメモリアルシップの八甲田丸でガイドを務める元機関長の葛西鎌司さん(71)。小学6年生で初乗船して以来、その虜に。

「住んでいた弘前に海がなかったから、感動してね。貨物船に乗っていたけど、25歳で転職しました」

 青函連絡船は国鉄が1908年から1988年まで運行(最後はJR北海道)。青森~函館間の人々の移動と、貨物輸送を支えた。改めて感じる連絡船の魅力はなんだったのだろうか。

「連絡船は貨物車を積むし、ほかにも最先端の技術にあふれていました。あとは、人を運ぶことですね」

 実際、片道3時間50分の航路上には、いろんなドラマが……。

「あるとき若い女性が海に身を投げたんです。助けに行って船に引き上げたけど半狂乱でね。そうしたら乗客の1人が彼女の頬をバシッと叩いて。それでわれに返ったようでした。その姿は忘れられません」

 片や、航海中に出産というドラマも。人それぞれの旅情があった青函連絡船も現在は、八甲田丸と、函館にある摩周丸の2船しか残ってない。維持費には膨大な費用がかかるが、葛西さんは言う。

「私は青函連絡船が世界遺産になってもおかしくないと思う。運んだ貨物は2億5000万トン。お客さんの数は1億6000万人。これだけ日本の発展に役立ったんですから。そうなることが私の夢ですね」

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連絡船の醍醐味・車両甲板

撮影/齋藤周造